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英印円卓会議

イギリスが提唱したインドの自治に関するロンドンでの会議。インドの完全独立要求を抑え、一定の自治付与で終わらせようとしたが失敗した。

 インドの反英闘争は第一次世界大戦後に急速に高揚し、1930年1月には「「完全独立」(プールナ=スワラージ)」が宣言され、ガンディーに指導された塩の行進を始めとする第2次非暴力・不服従運動が展開された。

イギリス政府のねらい

 イギリスの現地当局は対応に苦慮していたが、本国の保守層にはインド支配を堅持すべきであるとの意見も根強かった。しかし、折から29年の世界恐慌の影響がイギリスにもおよび、ヨーロッパではナチス=ドイツが台頭するという情勢の中で、イギリスは植民地経営において妥協しなければならない状況が出はじめていた。本国政府も一定の妥協が強いられ、イギリス主導で自治に関する話し合い提唱することとした。
 イギリスのねらいは国民会議派のガンディーなどを抱き込み、懐柔するところにあったが、成功しなかった。ロンドンにインド代表を招いて、第1回は1930年11月~31年1月、第2回は31年9月~12月、第3回は32年11~12月に行われた。国民会議派は第1回はボイコットしたが、第2回にはガンディー自身がが出席した。イギリスはマクドナルド挙国連立内閣が交渉に当たり、ガンディーを抱き込むことには失敗したが、一応の成果として1935年に新インド統治法を成立させた。

第1回円卓会議

 1930年11月から翌年1月までロンドンで開催した。国民会議派の代表は参加しなかった。不可触民(ガンディーは彼らをハリジャンと呼んだ)の代表として参加したアンベードカルは、中央の議会及び地方議会において、不可触民の議席枠を設ける分離選挙を主張した。

第2回円卓会議

 1931年に入り、イギリスは事態の打開を図り、国民会議派の「非合法」を解き、総督アーウィンが直接ガンディーと交渉、政治犯の釈放や塩税の廃止を約束して「塩の行進」は中止され、ガンディーは初めて英印円卓会議に参加することにした。第2回会議は31年8月末に始まったが、やはり何ももたらさなかった。ガンディーは完全自治の早期実現をひたすら要求したが、議題は宗派・階層ごとにどのように議席を分配するかというようなコミュナリズム問題にすり替えられ、宗教団体や政党の駆け引きに終始してしまった。この分離選挙制度は、イギリスのイギリスの分割統治を狙った策謀であったが、アンベードカルはここでも不可触民に対する分離選挙を要求した。イギリスの巧妙な分裂工作が図に当たった格好で、ガンディーは得るところなくインドに帰った。帰国後、非協力運動の再開を指令すると、イギリス当局はガンディーを逮捕、裁判なしで投獄した。

マクドナルドのコミュナル裁定

 マクドナルド挙国一致内閣は、1932年8月17日に、第2回円卓会議で紛糾した選挙制度問題に決着をつけるべく、「コミュナル裁定」を発表した。これは従来の分離選挙制をさらに強化したもので、選挙区の数を、ヒンドゥー教徒・ムスリム・シク教徒・英印混血児・ヨーロッパ人・被抑圧階級・インド人キリスト教徒・商工業者・地主ならびに資本家・労働者・大学関係者・婦人の十二に細分するもので、ヒンドゥ教徒以外の少数者に多くの議席を配分すると同時に、ヒンドゥー社会をカースト内とアウト=カースト(不可触民=被抑圧階級)に分断するものであった。つまり、インド側が要求を統一できないでいる以上、イギリスが裁定するしかないとし、しかもこの段階でもインド社会のコミュナリズム問題を利用して、分割統治を維持しようとした。

Episode ガンディーに対するチャーチルの感情

 英印円卓会議が開催されることになったが、イギリス保守党の政治家、チャーチルが、「ガンディー氏が……(イギリス国王の)代表と対等の資格で話し合うために、副王宮の階段を素足で上がっていく……と考えると吐き気を催す」と述べているように、インドに対する蔑視はぬきがたいものがあった。
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第15章3節 エ.インドでの民族運動の展開