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二・二八事件

日本統治の終わった台湾で、1947年、中国本土から来た外省人と本省人(台湾人)が衝突、国民党政府の弾圧で多くの死者が出た事件。鎮圧された後、1949年12月、蔣介石の国民政府が台湾に入り、その統治が続く中で、事件について語ることは許されず、長く実態が明らかではなかった。

台湾の「祖国復帰」

 1945年9月2日、日本国は連合国に対する降伏文書に署名した。それによって連合国軍総司令部は中国(満州を除く)と台湾、および北ベトナムの日本軍は蔣介石の中国軍に投降した。
 そのころすでに中国では国民党と共産党の国共内戦(第2次)が始まっており、重慶にあった蔣介石の国民党政権は、陳儀を台湾省行政長官として米軍機で台北に送り込み、10月25日、陳儀は台湾が中華民国国民政府(国民党政権)の主権下に置かれることを宣言、祖国復帰を祝う光復大会が開催された。10月25日は以後、台湾の祖国復帰の日「光復節」として祝日となった。

外省人と本省人

 このときから台湾人はそれまでの日本国籍から中華民国の国籍となり「本省人」と称され、中国から新たに渡ってきた中国人を「外省人」として区別することとなった。
 このとき、日本企業の財産や私有財産はすべて接収されたが、接収にあたり国民党政権の外省人官吏の中に私腹を肥やすものが多く、本省人つまり台湾人の反感をかった。接収された日本企業は台湾の公営企業に移管したが、その上級職も外省人が独占した。また台湾産の米は中国本土に送られたために台湾内で不足し、米価は急上昇、あわせて台湾経済は混乱に陥った。国民党政権の官吏の腐敗は治安の悪化を招き、外省人の横暴な態度に本省人の反発が強まっていった。

本省人の不満の爆発

 日本が降伏し、台湾が光復してから1年4ヶ月後の1947年2月28日についに外省人と本省人の衝突事件がおこった。国民党政府は日本の台湾総督の政策を引きつぎタバコを専売品とし重要な財源としていたが、同時に政府の高官とその関係者はタバコを密輸して稼いでいた。いわば密輸タバコの元締めを放置しながら末端の街頭小売人ばかりを摘発することに台湾人=本省人は反発した。

暴動、全島に波及

 発端は前日の夕方、台北市の淡水河沿いの台湾人商店街で密輸タバコの取り締まりだった。本土出身の外省人取締官が、中年の台湾人寡婦から密輸タバコを没収、さらに所持金まで取り上げた。跪いて必死に現金の返却を哀願した台湾人寡婦の頭を銃で殴りつけると憤慨した群衆が一斉に取締官に抗議の声を上げた。あわてた取締官が発泡、一市民にあたって即死した。一層激昂した群衆から逃れた取締官は近くの警察局に逃げこんだ。翌28日、群衆は専売局に押しかけて抗議し、書院を殴りつけ書類を焼き払い、午後には長官公署前広場に集まり、抗議と共に政治改革を要求した。ところが公署屋上から憲兵が機関銃を乱射し、数十人の死傷者が出た。
 事態は緊迫し、台北市の商店は軒並み閉店、工場は操業を停止、学生は授業をボイコットし、万を超える市民が抗議の輪を広げて市中は騒然とした。警備総司令部は戒厳令を布告したが、市民は放送局を占拠して全台湾に事件の発生を知らせた。3月1日、暴動は台湾全土に波及し、各地で官庁や警察署が襲撃され、外省人とみられた人は子どもも含めてリンチされた。
 陳儀台湾省行政長官は台湾人による事件処理委員会を設置、その報告をもとに5日から6日にかけて官庁などでの台湾人の登用、専売制の廃止、言論・出版・集会の自由、汚職官吏の追放などの改革を約束して暴動を鎮めようとした。

国民党軍による鎮圧

 しかし、3月8日、中国本土から派遣された憲兵2千、陸軍1万1千の増援部隊が基隆港と高雄港から上陸、そのままてあたりしだい台湾人に向けて発砲した。この部隊はアメリカの援助で装備された近代的な部隊であり、武器のない台湾人の抵抗できるところではなかった。市民に対する虐殺を行う一方、警備総司令部は3月14日に全島を平定、全島の戸籍調査の名目で捜査を開始し、暴動に関与した疑いのある人物を次々と逮捕、無関係であっても外省人に批判的な言動の人間、特に知識人が狙われ、その多くが粛清され消息を絶った。

死傷者2万8千に上る

 二・二八事件の1ヶ月余で殺害された台湾人は、国民党政権のその後の発表では約2万8千を数え、当時の台湾人の200人強に一人にあたる数である。日本の五〇年間の統治において武力抵抗で殺戮された台湾人の数に匹敵する。<以上、伊藤潔『台湾 四百年の歴史と展望』1993 中公新書 p.149-159>
(引用)台湾人に対する無差別の殺戮は基隆と高雄に始まり、台北から屏東さらに東部に転じ、約二週間で台湾全土におよび、台湾人の抵抗は完全に鎮圧された。殺戮には機関銃が使用されたほか、鼻や耳を削ぎ落とした上に、掌に針金を通して数人一組に繋いだり、麻袋に詰めて海や川に投げ捨てるなど、きわめて残虐なものであった。逮捕されても処刑の前に市中を引き回され、処刑後は数日間にわたり、市民へのみせしめとして放置された人も多々あった。とても20世紀に生きる文明人のなせる業とは信じ難い野蛮な手口であり、「祖国」や「同胞」の仕業ではあり得なかった。<伊藤潔『台湾 四百年の歴史と展望』1993 中公新書 p.153-154>

事件の側面

 二・二八事件は、台湾人民衆の不満の中から自然発生的に起こった暴動であり、台湾独立や民主化に向かう指導部は存在していなかった。中国本土では国民党と戦っている中国共産党の影響は台湾にはまだ弱く、その指導は及んでいなかった。台湾で生まれ貧しい女工から政治的に自覚し、神戸などで学び、上海で1925年の五・三〇運動で活躍し、モスクワに留学した謝雪紅らが、1928年に台湾共産党を設立したが、日本統治下の弾圧によって活動を抑えられていた。二・二八事件が突発的に起こると、謝雪紅は武装蜂起を呼びかけたが組織的な指導を行うことは出来ず、挫折して香港に逃れて台湾民主自治同盟などを結成した(彼女は後に文化大革命で批判され1970年に病没、現在は名誉を回復している)。<戴國煇『台湾』1988 岩波新書 p.89,109>
 二・二八事件における中国本土からの外省人と国府増援軍の残虐な弾圧行動について、本省人=台湾人側を単純に被害者側としてだけで理解することに対して、次のような見方もある。
(引用)国府の増援軍の二個師団は3月8日から9日にかけてぞくぞくと基隆に上陸した。決起側の本省人が外省人に向けて働いたリンチ、罵詈雑言、なかんずく日本語によるもしくは日本式の侮辱的仕打ちは外省人たちの感情をいたく傷つけ、憎悪をかきあてた。それがまた師団将兵にはね返ったのは想像にかたくない。抗日戦争での反日感情がまだ濃厚に残存していた時期だけに、本省人と外省人の間にできた溝は想像を越えて深刻なものとなった。<戴國煇『台湾』1988 岩波新書 p.109>
 鎮圧軍の弾圧行動はたけだけしく繰り広げられ、それは「近親憎悪」が頂点に達し、銃器を通じての凄惨な状況となった。

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書籍案内

伊藤潔
『台湾 四百年の歴史と展望』
1993 中公新書

戴國煇
『台湾-人間・歴史・心性-』
1988 岩波新書