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台湾

中国本土の東方にある大きな島で、本土とは別個な文化圏を形成していた。明代から漢民族が移り住み、漢文化が浸透していった。清代にはその支配下に入り、中華民国に継承され、第二次世界大戦後は国共内戦で敗れた国民党政府が移り、実質的な独立国家となっている。

 台湾は古来、中国本土とは別個な文化圏にあった。中国の史料にも様々な名前で出てきて、一定しない。南部の台南の外港にタイオワンといわれたところがあり、その地名が後にこの島全体の名称となって台湾の字があてられるようになったらしい。
 東アジア交易圏の中継地としても栄え、明代には倭寇が活動し、17世紀以降ポルトガル、オランダ、スペインなどが進出、17世紀には鄭氏台湾が成立したが、清朝に服属した。1894年の日清戦争の結果として日本に割譲され、第二次世界大戦終了まで続く。戦後、国共内戦に敗れた国民党政府が中国本土から移り、台湾を統治するようになった。本土の中華人民共和国は台湾を領土と見なしているが、実質的には独立した国家となっている。ただし、1970年代に国連代表権は中華人民共和国に移ったため、アメリカ・日本なども台湾との外交関係を断ったため、独立した主権国家とは認められていない。
 → (1)鄭氏台湾と清の支配  (2)日本植民地時代  (3)中華民国政府の統治  (4)現代の台湾  (参考)中華民国(台湾=国民政府)

台湾(1) 鄭氏台湾と清の支配

琉球王国と倭寇

 宋・元時代には、東アジアの海上貿易の中心地であった現在の沖縄が大琉球つまり琉球王国といわれ、台湾を小琉球と言われていたらしい。明代には15世紀後半から16世紀にかけて倭寇が活躍し、その活動に加わった華南沿岸の漢人が台湾に移住することが多くなった。

オランダの進出

 17世紀になるとポルトガルマカオ進出に刺激されたオランダ、スペインが台湾に進出を試みた。まずオランダが1602年以来、マカオや澎湖島を武力攻撃したが、明とポルトガルの連合軍によって上陸を阻止され、やむをえず矛先を台湾に向けた。明も台湾は化外の地であったので、黙認し、オランダは1624年、台湾南部のタイオワン(現在の台南の外港である安平)にゼーランディア城を建設した。その頃、日本でも江戸幕府のもとで朱印船貿易が盛んであったが、長崎の有力な朱印船貿易家であった末次平蔵も台湾進出を目論み、タイオワンに進出して1628年にオランダと衝突、タイオワン事件が起こったが占領に失敗した。さらにオランダは北部台湾のスペイン勢力を圧迫し、1642年に撤退させて、台湾においてはその東インド会社による植民地経営が1661年まで行われた。 → ゼーランディア城の項を参照

スペインの進出と撤退

 一方、フィリピンを植民地化したスペインは、オランダの台湾進出に対抗して台湾北部に進出し砦を築いた。しかし北部台湾では山地民族中、もっとも勇猛で、最大勢力を誇るアタイヤル族がスペインの植民地支配に抵抗し、カトリック伝道もままならぬ状態が続き、やがて優勢なオランダ艦隊に追われて、1642年には16年間の北部台湾支配を終えて撤退した。

鄭芝竜・鄭成功の進出

 オランダの台湾進出に対して、明朝はその地が正式な領土ではなかったので黙認せざるを得なかったが、オランダ支配が定着することを畏れ、1628年、当時東シナ海一帯の海賊集団であった鄭芝竜を官につけて台湾に進出させた。鄭芝竜は福建の住民を台湾西部に入植させて基盤をつくり、オランダの支配に対抗した。1644年に明が滅亡すると、鄭芝竜・鄭成功の親子は台湾を拠点に反清復明の運動を展開した。鄭成功は1661年、2万5千の大水軍を率いてオランダの台湾支配の拠点、ゼーランディア城を占領、翌年にオランダは台湾から撤退した。これ以後、1683年までの22年間は本土の清王朝から独立した、鄭氏台湾が存続する。

清朝の支配

 1683年、清の康煕帝は、台湾の鄭氏一族の内紛に乗じて遠征軍を送り、制圧した。ここにはじめて台湾は中国の領土として本土政権の統治を受けることとなった。<戴國煇『台湾-人間・歴史・心性-』1988 岩波新書/伊藤潔『台湾 四百年の歴史と展望』1993 中公新書>

台湾(2) 日本植民地時代

台湾には1874年に日本が初めて出兵し、さらに日清戦争後の1895年、下関条約で日本に割譲され、以後1945年まで植民地支配が続いた。

日本の台湾出兵

 1874年、日本の明治政府は、71年に起こった琉球王国の宮古島の漁民が台湾に漂着して、先住民に殺害されたことへの報復を口実に台湾出兵を実行した。これは近代日本の最初の海外派兵であったが、そのねらいは、琉球が日本に帰属する島であることを清朝に認めさせることにあった。清朝はすでに成立していた日清修好条規に反するとして抗議したが、当時はまだ洋務運動の最中で、近代装備の海軍を有していなかったので日本に対抗することが出来ず、イギリスの仲介で日本の出兵を認め、賠償金を支払って決着させた。結果として、清は琉球が日本領であることを認めることとなった。一方、台湾が清国領であることも確定したので、清朝は1885年に台湾省を設置、劉銘伝を初代巡撫として直接統治を開始した。清朝は台湾版洋務運動ともいうべき産業近代化を開始し、基隆(キールン)炭坑の開発、大陸との海底電線、鉄道の建設などを計画した。これらは保守派の抵抗で多くは挫折したが、十年後に始まる日本統治時代の開発を基礎づけるものであった。

日清戦争

 日清戦争は朝鮮を巡る両国の対立から起こった戦争であるが、台湾は沖縄に近く、砂糖などの生産地、地下資源など日本にとって有用であるとして日本の戦争目的の一つには早くから台湾領有の意図があった。また、イギリス・フランスも関心を寄せ、日本の台湾進出を警戒していた。清朝は独力で台湾を保持するのは困難と考え、まずイギリスへの売却交渉を子なったが合意に至らなかった。またフランスは海軍を台湾に派遣するなど積極的で、清朝も一時的譲渡など交渉を行ったが、マダガスカルで反仏暴動が起こったため、台湾譲渡は実現しなかった。そのような情勢の中、日清戦争は講和交渉に入ったが、その最中の1895年3月、日本軍は台湾と大陸の間にある澎湖島を占領して清を牽制し、下関条約で遼東半島とともに台湾を譲渡することを合意させた。

台湾民主国

 日清戦争の講和条約として、4月17日に下関条約が締結され、台湾割譲を清朝が合意したが、その間、現地の台湾には一切知らされていなかった。台湾の官民は悲嘆にくれながら、台湾を独立国とすれば日本への譲渡はできなくなるとの考えが急速に芽生え、5月23日、「台湾民主国」の独立宣言を行った。台湾の不穏な情勢を恐れた日本はその占領を急ぎ、樺山資紀を台湾総督に任命し、6月2日、清国側代表と台湾受け渡しの手続きを完了(清国代表が台湾に上陸できないため、洋上での手続きとなった)して、台湾への上陸を開始した。台湾民主国はその幹部が大陸人であったためいち早く大陸に逃れたため台湾北部はほとんど無抵抗で平定されが、台湾民主国の副総統兼民兵司令官の劉永福(かつて黒旗軍を率い、ベトナムでフランス軍を破った客家出身者)は南部でゲリラ戦を続け、日本軍の平定は難航した。しかし、英仏など外国の支援のない中で抵抗は困難となり、10月に劉永福自身も厦門に逃れ、台湾民主国は崩壊し、抵抗が終わった。列強の関心は三国干渉での遼東半島還付問題に移っていた。

日本の統治と反植民地運動

 こうして1895年から、日本が第二次世界大戦で敗れる1945までの50年間、植民地支配を受けることとなる。日本は台湾総督府(軍人が総督となる軍政が敷かれた)を置いて植民地支配を開始するがその後も山岳民族などの抵抗活動が続いた。
 1902年頃までに日本軍の苛酷な軍政によって抵抗運動は抑えつけられ、それ以後は台湾銀行などを通じての日本の帝国主義により植民地収奪が続いた。1930年10月には現地の山岳民による日本人官憲の圧政に対する反発から、日本人が襲撃される暴動(霧社事件)が起こっている。また太平洋戦争が始まると、日本による皇民化政策が行われ、日本語教育・神社参拝・天皇崇拝・宮城遙拝が奨励され、多くの台湾人が日本軍に動員された。

台湾(3) 中華民国政府の統治

日本植民地からの解放されたが、本土から中華民国政府が移り、二・二八事件など本土人と台湾人の対立が続いた。

 日清戦争での下関条約によって日本に割譲された台湾は、1895年から50年にわたる植民地支配から解放され、1945年10月から国民政府(国民党政府)の支配下に入った。

本土人と台湾人の対立

 しかし本土から派遣された国民政府の役人は台湾人を搾取し、官憲の力でその自由を奪うことが多かった。1947年2月28日には、本国出身の警官が、台湾人の老婆をタバコ密売のかどで射殺したことから抗議行動が始まり、たちまち全島の蜂起となった。国民政府は本土から軍隊を派遣して暴動を鎮圧、抵抗する民衆を殺害した。このときの犠牲者は1万人以上、数万人に上るという(二・二八事件)。そこに1949年12月、本土での共産党の内戦に敗れた蔣介石の国民党軍50万が逃げ延びてきた。 → 中華民国(台湾政府)

Episode 闇の中の二・二八事件

 二・二八事件は本省人(台湾人)と外省人(中国本土出身者)の対立であり、国民政府統治下の現在の台湾では、その真相は今でも隠されているようだ。両者にとってふれたくない傷口というところであろう。以下は戴國煇氏の報告。
「かつて日本人が台湾人を含む中国人に投げかけた「チャンコロ」という罵声を、本省人が同胞たるべき外省人に向けてどなりちらす。日本の軍刀を振り回し、鉢巻きをして日本の軍歌をわめきちらすものさえいた。私はこうした人心の荒廃ぶりを見てぞっとさせられた。本省人と外省人の識別のために「君が代」を歌わせ、いたいけな外省人の子どもに「チャンコロのバカ野郎め」とリンチを加えるに至っては、動乱の中とはいえ、何をかいわんやである。……「麗しき島」(フォルモサ)がやがて血塗られた悲劇の島となった。」<戴國煇『台湾』1988 岩波新書 p.102>

台湾(4) 現代の台湾

1975年、蔣介石死後から現在まで。李登輝政権の民主化進む。

アメリカとの断絶

 1971年のアメリカのニクソン政権はキッシンジャーをひそかに北京を訪問させ、米中の関係改善をはかり、その結果、台湾の中華民国政府は国際連合の「中国」代表権を失い、国連から追放された。さらに翌72年にニクソン大統領が北京を訪問、中国を一つの国家と認めることとなったため、台湾との関係は冷却し、1979年にカーター大統領と鄧小平の間で正式に米中国交正常化が成立したためアメリカと台湾は断交、翌80年に米華相互防衛条約が失効した。

経済成長

 このような危機の中で、蔣介石は1975年に死去、78年に息子の蒋経国が総統となり、国民党以外の政党を認めるなど改革を進め、高い経済成長を実現し、NIEsの一つに数えられるようになった。

台湾の民主化

 1988年には初めて台湾出身者(本省人)である李登輝政権が成立、大胆な民主化を進めた。1990年には、台湾で初めて国民の直接選挙による総統選挙が行われ、李登輝が再任された。

李登輝の改革

 台湾では、依然として中華人民共和国を認めず、共産党との内戦を継続しているという形を取っていた。つまり内戦状態が続いていると形だったのであり、1948年に出された「動員戡乱時期臨時条項」がまだ生きていた。李登輝は1991年4月にこの条項を廃止し内戦状態の終結を宣言した。また台湾の国会にあたる国民大会の議員は、内戦状態が続いていることを理由に、本土出身議員の議員資格は終身とされていた。それに対する台湾人の不満が根強かったので、李登輝は同じく1991年12月に終身資格を持った議員を引退させ、国民大会議員選挙を実施、その結果、台湾出身者が議会の70%を占めた。これは、本土出身者に対する本省人の優位を画定したことになり、画期的なことであった。さらに1996年には、台湾で初めて国民の直接選挙による総統選挙が行われ、李登輝が再任された。

初めての政権交代

 李登輝までは国民党政権であったが、2000年の李登輝退任後の選挙では民進党陳水扁が当選し、戦後50年続いた国民党政権からの政権交代が実現した。この間、経済的な発展を遂げ、民主化も進めた台湾は、中国からの分離独立と「台湾」としての国際社会での承認を得る動きが強まっており、北京の中華人民共和国政府は強く反発している。