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日米安保条約改定

1960年、自民党岸信介内閣によって多くの反対を押し切り改定された。

 1960年に激しい反対運動を抑え込んだ自民党岸内閣とアメリカのアイゼンハウアー大統領によって締結され、日米軍事同盟が強化された新安保条約。
 1951年に締結された日米安全保障条約(旧安保)は、日本の自衛隊発足前のもので、アメリカ軍による保護協定的な性格が強かったが、55年に保守合同で成立した自民党は自主憲法制定、共産圏に対する防衛力強化を掲げて、安保条約の改定をめざした。57年には岸・アイゼンハウアー間で改定の方向で一致、作業に入り、前条約の改定期を迎えた60年に改定された。70年に再改定され、現在、安保条約といえば現行のこの条約をいう。

新安保条約の内容

:以下に主な内容を挙げる(数字は条)。
2・両国の経済的協力を促進する。 
3・武力攻撃に抵抗する能力を維持、発展させる。 
5・日本国の領域でいずれかが攻撃された場合に共同防衛する。 
6・極東における国際の平和および安全に寄与するためにアメリカ軍による施設・区域(基地)の使用が許される(その実施にあたっては事前協議を行うことが別に定められる)。
10・10年後に締約国の通告があれば1年後に終了する。

日米地位協定

 日米安保条約の第6条にもとづくアメリカ軍(在日米軍)への基地提供および使用に関する細則を定めたもの。現在の沖縄普天間基地など具体的にはこの協定で運用されている。
 この安全保障条約改定に対し、激しい反対運動(安保闘争)が起こった。

安保闘争

1960年の日米安保条約の改定に際して高揚した軍事同盟反対の国民運動。

 日米安保条約の改定に対し、国内では社会党・共産党および労働組合、学生、市民の中から対米従属の軍事同盟反対、基地強化反対の声が上がった。日本が核戦争に加担し、再び戦争の道に進むことに対する強い危機からの反対運動であり、戦後の民衆運動が最高潮に達した。それに対して自民党政府はソ連・中国の脅威から日本を防衛するためのアメリカの核の傘の中にいることが現実的であるとして反対運動を抑えつけた。平和共存路線に行き詰まっていたアメリカのアイゼンハウアーも中国共産党の脅威などからアジアを防衛するためには日本を反共陣営の中に留め、軍事基地はどうしても手放せないという戦略から日本政府を後押しした。

安保改定反対運動

 1960年5月~6月、日米安保条約改定の批准に対する社会党・共産党の反対を岸信介自民党内閣は強行採決した。反対運動は議会外でも盛り上がり、激しいデモが繰り返され、全学連の女子学生が死亡、多数の負傷者がでた。その後条約は自然成立したが、反対運動によってアイゼンハウアーの訪日は取り止めとなり、岸内閣は条約成立を待って辞任した。この60年安保闘争を機に、日本は日米軍事同盟の枠の中で高度経済成長路線に転換していくこととなる。
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ノートの参照
第16章2節 ウ.アメリカの繁栄と西欧・日本の復興