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平和共存

第二次世界大戦後の冷戦の過程で、スターリン批判後の1956年から60年初頭にかけて、米ソの共存が模索された。

 1953年のソ連のスターリンの死去に始まり、1956年にフルシチョフによって打ち出された、冷戦の中でソ連アメリカ合衆国の共存を図る外交政策。1960年代初頭のキューバ危機の頃まで続いた。ソ連国内の言論の自由制限の緩和などの雪どけの動きに対応した外交政策の原則の転換であったが、東西冷戦のなかで互いに交渉相手として認めたにすぎず、和解を求めたものではなかった。また共存の前提として米ソ二大国は軍事力の均衡を前提としたため、かえって核兵器開発競争はしのぎを削ることと成り、また国力を誇示するための宇宙開発競争が展開されることとなった。

冷戦の変化

 第二次世界大戦後の1947年頃から明確になった東西冷戦は、東西ドイツの分断でヨーロッパにおいては膠着状態となった。49年に中華人民共和国が成立したことから一気に冷戦構造はアジアにもおよび、50年には朝鮮戦争として火を噴いた。このような冷戦の深刻化は、アメリカの世界戦略を「逆コース」に向かわせ、日本の再軍備がなされた。
 この間ソ連はスターリン独裁体制が続いていたが、53年にスターリンの死を迎え、外交政策の転換が図られた。アメリカでも同じ年にアイゼンハウアーへの大統領の交代があった。アイゼンハウアー政権は当初、まき返し政策と称してソ連との対決色を強めたが、ほぼ大戦後10年をすぎて核戦争の危機が迫ったことに対する国際世論の不安が、米ソ両国への圧力となったことも背景となり、平和共存ムードが高まり、両国の対抗姿勢の転換につながった。 → アメリカの外交政策
第三世界の台頭 さらに無視できないのは、第二次世界大戦後、アジア・アフリカに巻き起こった民族独立の動きとそこから生まれた新興国の台頭であった。特に中国の周恩来とインドのネルー平和五原則をかかげて米ソの対立を牽制、1955年にアジア=アフリカ会議を開催して、第三世界の結束を示した。この動きを米ソとも無視できなくなった。

ソ連外交の転換

 平和共存の前提として周辺諸国との関係の修復と強化に乗り出した。
  • 1954年 フルシチョフ、中国訪問。経済援助を約束し旅順・大連返還を決める。
  • 1954年 日本(鳩山内閣)と国交回復交渉開始。 →56年 日ソ国交回復
  • 1955年 フルシチョフ、ユーゴスラヴィア訪問。国交を正常化。
  • 1955年 ソ連、西ドイツを承認し、国交を樹立。
  • 1955年 オーストリア国家条約に調印。主権回復、永世中立を承認。

平和共存路線の主な動き

  • 1955年にワルシャワ条約機構が成立したのは、西ドイツのNATO加盟と再軍備に対応したもので、米ソがドイツの東西分断という現状を認めたことを意味した。同年7月のジュネーヴ四ヵ国首脳会談は具体的な成果はなかったが、「ジュネーヴ精神」という平和共存の理念を明らかにした。
  • 1956年にはフルシチョフが第20回共産党大会で従来の戦争不可避論やアメリカ敵視政策を改め、平和共存を明確に打ち出し、同時にスターリン批判を行った。しかし、同年に起こったポーランドハンガリーの動乱をソ連が軍事制圧したことから再び危機は高まり、平和共存に陰りが見えた。また、同年のスエズ戦争ではフルシチョフはイギリス・フランスに対しミサイル発射を含めて対抗しようとした。(1956年の危機)
  • 1958年 フルシチョフ・ソ連は、アメリカとの軍事バランスで優位に立とうとして核開発を強め、人工衛星・ICBMの開発などを進めた。
  • 1959年に始めてフルシチョフが渡米し、アイゼンハウアー大統領とキャンプデーヴィッドでの会談に応じた。
  • 1960年には第2回4ヵ国首脳会談がU2機事件で中止された。
  • 1961年のウィーンでのケネディ大統領との会談はドイツ問題で決裂、ベルリンの壁が建設された。「平和共存」の危機。
  • 1962年にはキューバ危機が起こって平和共存路線は終わりを告げ、米ソ間は平和ではあるが冷たいという「冷たい平和」(または「敵対的平和」ともいう)の状況となる。反面、米ソ両国は核戦争の恐怖にさらされ、核軍縮を真剣に考えなければならない「緊張緩和(デタント)」を模索することとなる。
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ノートの参照
第16章2節 イ.雪解けと平和共存