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アイゼンハウアー

アメリカ合衆国第34代大統領。共和党。軍人として第二次世界大戦のヨーロッパ戦線で活躍。1953年に大統領となり、冷戦期の巻き返し政策を展開。一方で平和共存を模索した。61年の退任にあたっては、軍産複合体の強大化に警鐘を鳴らした。


アイゼンハウアー大統領の
I LIKE IKE バッジ
志野『カンバッジが語るアメリカ大統領』p.31

 在任1953年1月~61年のアメリカ合衆国の大統領。共和党。もとは軍人で、第二次世界大戦で北アフリカ作戦、ノルマンディー上陸作戦などを指揮して名声を高める。その愛嬌のある風貌からアイクという愛称で呼ばれて国民的英雄となる。第二次世界大戦後はコロンビア大学総長を務めた後、トルーマン大統領から欧州連合軍最高司令官に任命され、発足した北大西洋条約機構(NATO)軍の組織化と米軍の欧州配備を実現した。1952年の大統領選挙には、共和党から担がれ、F=ローズヴェルト、トルーマンと続いた民主党政権に対し、反共・保守主義を掲げて当選した。この時期は議会での共和党右派マッカーシーによる共産主義攻撃が最高潮に達し、「赤狩り」の風潮が広がったことが、共和党政権復活を助けたと言える。

Episode I LIKE IKE

 1952年の大統領選挙は共和党のアイゼンハウアーと民主党のスティヴンソンの戦いとなった。二大政党の全国大会が初めて本格的にテレビ中継され、アイゼンハウアーのCMも登場した。この52年を境に大統領選挙はより国民に身近なイベントになっていった。このとき共和党のキャンペーンの「I LIKE IKE」の「アイ」が三回続くフレーズが全米で大流行し、多数のアイテムが作られた。右はその一つで、もっと簡単に文字だけのものも多数作られ、「ビッグスマイル」と言われた無邪気な笑い顔の写真とともに全国に溢れ、アイゼンハウアーが大笑するのに訳だった。<志野靖史『カンバッジが語るアメリカ大統領』2010 集英社新書 p.26-38>

外政 巻き返し政策

 1953年1月20日の就任演説で、共産圏に対する「まき返し政策」を提唱(ダレス国務長官の提案)し、核開発でも水爆実験を推進、1954年3月には、ビキニ環礁水素爆弾の実験を行った。
 一方では現実的な外交政策も見せ、1953年には朝鮮戦争の休戦に踏み切り、その介入失敗に懲りて、アジアの民族紛争には基本的には不介入政策を採った。インドシナ戦争(第1次)の終結を目指すジュネーヴ会議開催には同意したが、ジュネーヴ協定には加わらず、フランス敗退後に東南アジアでの共産化を防止するとしてベトナム介入を開始した。また西アジア地域では、1956年のスエズ戦争(第2次中東戦争)に際してはイギリス・フランスの武力行使に反対したものの、戦後エジプトのナセル政権の親ソ路線が強まると、1957年1月にはアイゼンハウアー=ドクトリンを発表して中東地域に軍事介入することを宣言し、58年にはレバノン暴動に際してアメリカ軍を派遣した。
 一方で、ソ連がスターリンの死去によって、フルシチョフのときに平和共存に転換すると、積極的に対応し、55年のジュネーヴ4巨頭会談1959年9月フルシチョフ訪米を実現させた。しかし、ソ連の大陸間弾道ミサイル実験成功、さらにU2型機事件が起こり、米ソの対立は再び深刻となった。そのような中で、1960年には日米の軍事同盟強化をめざして日米安保条約改定を行ったが、日本国内では激しい反対運動が起こり、アイゼンハウアーの訪日が中止された。

内政 経済発展を優先

 50年代に巻き起こった反共主義によるマッカーシズム旋風も、その虚偽性が明らかになったことで1954年12月に上院がマッカーシー非難決議を出し、沈静化した。この頃にはマッカーシー支持者とみられていた副大統領ニクソンも一線を画すようになっていた。
 アイゼンハウアー政権は大資本擁護の穏健な保守政策をかかげ、経済の発展を優先させ、アメリカは「黄金時代」と言われる50年代の繁栄を迎えた。この間、米ソ関係は相手の存在を認めず敵視する政策から、平和共存に転換したものの、核兵器開発競争を際限なくエスカレートして行き、1957年8月にはソ連が大陸間弾道ミサイル実験成功を公表したため、アメリカの開発も刺激され、軍事産業は軍拡とともに成長した。米ソは核兵器開発とともに宇宙開発と称した競争を展開したが、1957年10月にソ連が人工衛星の打ち上げに成功、アメリカはスプートニク=ショックといわれる衝撃を受けた。

政権交代

 外交面での米ソ対立が高まる中、1960年の選挙では後継の共和党候補ニクソンが民主党のケネディに敗れ(就任1961年)政権交代となった。ケネディはアイゼンハウアー共和党政権が宇宙開発競争での遅れために、ソ連に人工衛星開発で先行を許したことを批判し、共和党から民主党への政権交代を実現した。

軍産複合体への警告

 翌1961年1月、新大統領ケネディが就任するにあたり、アイゼンハウアーは離任演説を行った。このアイゼンハウアー離任演説は、前大統領として異例なアメリカの現状への警告であったため、アメリカ及び世界中の関心をひきおこし、またその後のアメリカの問題点を指摘した名演説として今も語り継がれている。
 アイゼンハウアーが警告したのはどのようなことであったか。当時アメリカは冷戦のさなかにあり核兵器開発競争は宇宙開発競争とともに、軍と産業界の結びつきを強めることとなり、軍産複合体が巨大化していた。アイゼンハウアーは、将来、軍事と産業の必要以上に緊密になった時、それが国民生活を圧迫することになるとして憂いたのだった。軍産複合体の過度な膨張、核開発競争や宇宙開発競争がアメリカの財政を圧迫し、第二次世界大戦後のアメリカ経済の成長が失われていった1970年代を予見する警告であった。

アイゼンハウアー=ドクトリン

1957年、アメリカの中東政策の基本方針。共産勢力の進出には武力行使も辞さないと表明した。

 1957年1月5日、アメリカのアイゼンハウアー大統領が発表した中東に関する新たな外交方針。中東諸国への経済的、軍事的援助の供与と、国際共産主義による武力侵略に対する米軍を出動させることが議会で承認された。
 前年のスエズ戦争(第2次中東戦争)でエジプトが事実上の勝利を占め、イギリスの力が完全に排除された後、「真空状態」となった中東地域に、ソ連の共産主義勢力が影響力を強めていることを警戒したアメリカのダレス国務長官がアイゼンハウアーを動かして議会に諮り、議会も承認したもの。
 やはり前年のソ連のスターリン批判から、アメリカとソ連の平和共存路線が始まっていたが、アメリカはダレス国務長官主導で基本的には冷戦は続きソ連のアジアやアフリカへの進出が続くと見ていた。アイゼンハウアー=ドクトリンがだされた翌58年、アラブ民族主義を掲げ、反米親ソ路線を採るエジプトナセル大統領は、シリアと合併してアラブ連合共和国を結成した。さらにイラク革命が起こり、親米的な王室が倒され、新政権がMETOを脱退したことにも危機感を持つようになった。同じく58年レバノン暴動が起こると、アイゼンハウアー政権は米軍を派遣したが、かえって反米感情を強くし、アラブ民族主義の勢いはますます強まる結果となった。
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志野靖史
『カンバッジが語る
アメリカ大統領』
2010 集英社新書