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アパルトヘイト

南アフリカ連邦おおび大戦後の南ア共和国で行われた白人支配者による黒人に対する広範囲な人種隔離政策。正式には1948年から採用された。

アパルトヘイトの意味

 アパルトヘイト apartheid とは、南アフリカ連邦及び南アフリカ共和国でとられていた、白人を優越させ、黒人を蔑視する人種主義に基づき、様々な立法措置によって、人種間の隔離をはかる制度である。アパルトヘイトは、オランダ語が現地語と融合して変化したアフリカーンス語で「隔離」を意味する。アパルトヘイトの用語が正式なものになったのは、国家の基本政策として確立した1948年であったが、その前提となる人種隔離政策は、1910年の南アフリカ連邦の成立力語から始まっていた。
(引用)それは、有色人、特にアフリカ黒人を劣等と決めつける人種差別思考の上に成り立つ考え方であったが、経済的には,白人には高級職種と熟練労働を、白人以外には低賃金職種と非熟練労働をあてがう搾取のメカニズムでもあった。それは南アフリカ資本主義の発達を支えることになる根本思想である。<宮本正興・松田素二編『新書アフリカ史』1997 講談社現代新書 p.375>

アパルトヘイトの起源

 南アフリカ連邦は1910年に成立したが、早くも1911年には最初の差別立法といわれる「鉱山労働法」を制定して鉱山での白人と黒人の賃金差別を合法化した。1913年には「原住民土地法」でアフリカ人の指定居住地は全土の7.3%と定め、アフリカ人の移動を制限すると同時に、鉱山・工場・白人農場などでのアフリカ人労働力を確保しようとした。1924年に国民党ヘルツォーク政権は後のアパルトヘイトの原型といわれる人種隔離政策を構想した。1926年には「産業調整法」が施行され、アフリカ人のストライキ権は制限され、1927年には異人種間の性交渉を禁止する法律が施行された。そして1925年には、南アフリカ連邦の公用語として英語とともにアフリカーンス語(もとケープ植民地で使われていたオランダ語が変形した現地語)が公用語とされた。

アパルトヘイトの成立

 第二次世界大戦後、1948年の総選挙でアパルトヘイトをスローガンに掲げてオランダ系白人(アフリカーナー)に訴えた国民党(NP)が勝利し、その政権のもとで50年代にかけてアパルトヘイト関係法律がつぎつぎと制定された。
・人口登録法 すべての南アフリカ人を白人、カラード、インド人、アフリカ人という4つの「人種」に分類した。
・雑婚禁止法と背徳法 人種間の結婚と性交渉を禁止した。
・集団地域法 都市地域を厳格に分割し、人種別の居住区を指定した。
・隔離施設留保法 公園、海水浴場、公衆トイレ、教会、レストラン、ホテル、劇場、映画館、エレベーター、バス、列車、学校、役所など、あらゆる公的な場所に「ヨーロッパ人専用」と「非ヨーロッパ人専用」に分離され、それぞれ掲示がかけられた。
ほかに、投票者分離代表法で非白人の参政権は奪われ、バンツー教育法で人種別の教育が定められた。また黒人の反体制活動を取り締まるために、共産主義弾圧法、破壊活動防止法などが矢継ぎ早に制定された。<宮本・松田編 同上 p.376 /峯陽一『南アフリカ 「虹の国」への歩み』1996 岩波新書 p.16>
 さらに1959年には全面的アパルトヘイト構想が打ち出され、民族(部族)単位ごとにアフリカ人に自治を与えるという分離政策が実施された。これによってアフリカ人地域は10に分割され、外交・防衛・治安などの権限を除いて各地域に自治を付与するという「バンツーホームランド市民権法」が成立した。70年代後半から自治国家として4つの「バンツーホームランド」がつくられたが、この形だけ自治を付与された国々は国際社会では一つも承認されなかった。

以下、編集中


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ノートの参照
第15章3節 キ.アフリカの民族主義
第15章3節 ウ.第三世界における強権支配の後退
書籍案内

宮本正興・松田素二編
『新書アフリカ史』
1997 講談社現代新書

峯陽一
『南アフリカ 「虹の国」への歩み』
1996 岩波新書