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マンデラ

南アフリカのアパルトヘイトに反対する黒人のアフリカ民族会議の指導者。長い獄中生活に耐え、1994年に黒人初の大統領に選出された。

 マンデラ Nelson Mandela 1918~2013 は1950年代から南アフリカ連邦における黒人蔑視の人種主義にもずく人種隔離政策であるアパルトヘイトにたいする戦いを続けた、アフリカ民族会議(ANC)の指導者。アパルトヘイトは、1961年に南ア連邦が南アフリカ共和国と改称されても継続され、ますます強化されたため、マンデラらはそれまでの非暴力抵抗運動から武装闘争へと方針を転換させた。そのため、62年には逮捕され、その後、27年間の獄中生活を送ることとなった。

アパルトヘイトの撤廃


ネルソン=マンデラ 1994年3月
 アパルトヘイトに対する国際社会の非難はますます強まり、1977年には国連安保理は南アへの武器輸出禁止を決議し、さらに各国は企業の撤退などの経済制制裁に踏み切った。84年には大規模な黒人の蜂起があり、翌年、政府は非常事態宣言を出した。経済制裁がさらに強まる中、経済界は政府に政策の転換を迫るようになった。
 1990年に南ア共和国白人政権(国民党)のデクラーク大統領は、ついにマンデラの釈放を決定、マンデラは27年に及ぶ獄中生活を終えて解放され、91年7月にANC議長に復帰した。デクラーク大統領は同時に、人種登録法・集団地域法・現住民土地法のアパルトヘイト根幹三法を廃止した。1993年にはデクラークとマンデラが共にノーベル平和賞を受賞している。その後、マンデラは人種間の平等と政治的平等を実現させた新しい南アフリカ共和国の指導者として、1994年に実施された総選挙でANCが第一党となり、黒人初の大統領に選出された。

マンデラの人物像

(引用)マンデラは、世界で最も尊敬される政治家のひとりである。27年6ヶ月の獄中生活の期間、マンデラはアパルトヘイトの絶頂期の政治の舞台から隔絶され続けていた。そのことは、この人物に利害関係を超越した象徴性を与える結果となった。
 ネルソン=ロリシャシャ=マンデラは、コーサ人の有力な首長の後継者として、1918年に生まれた。農村で育ち、ミッション教育を受け、法律学を学んだマンデラは、家族が押しつけた縁談から逃げたいという意図もあり、ジョハネスバークに居を移す。この大都会で、マンデラはアフリカ民族会議(ANC)の政治に深く関与するとともに、オリヴァー=タンボと一緒に黒人初の弁護士事務所を開設した。1960年代初頭、国民党政府の弾圧が強化されると、マンデラは地下に潜行したが、集会にひょっこり現れるなどして、捜査当局を手玉に取った。1962年には密出国し、ANC武装ゲリラへの支援を求め、アフリカ諸国とイギリスを旅した。彼が逮捕されたのは、秘密裏に帰国した直後である。釈放後のマンデラは、すべての南アフリカ人に慕われる「おじいちゃん」の役回りを自覚的に演じ、圧倒的な指示を受けている。マンデラ大統領は、公的な行事でも、おしゃれなトロピカル・シャツを着こなしている。首長の威厳と、マスコミ受けを計算できるパフォーマンスを兼ね備えたマンデラは、現代の南アフリカにおける「農村的なもの」と「都会的なもの」を一身に体現する存在だといえるかもしれない。<峯陽一『南アフリカ 「虹の国」への歩み』1996 岩波新書 p.26>

参考 1994年5月 マンデラ大統領就任

 1994年5月10日の大統領就任式典の記念演説において、マンデラは、生まれ変わった南アフリカを「虹の国」にたとえた。この表現には、雨上がりの青空にかかる七色の虹のように、黒人も白人も、すべての人種やエスニック集団が互いの違いを認めあいながら、対等に力を合わせ、開かれた国家を建設していこうとする決意が込められている。首都プレトリアの大統領官邸前の広場には、15万人の群衆が集まっていた。マンデラはこう語った。
(引用)・・・傷をいやすべき時がやってきた。私たちを分断してきた深い溝に橋を架けるべき瞬間がやってきた。建設の時代は、私たちの肩にかかっている。・・・私たちはついに、自らの政治的解放を達成した。私たちは、いまだに続く貧困、剥奪、苦難、性差別、その他の差別の束縛から、すべての民衆を解放していくことを誓う。・・・私たちは制約する。自分たちの心に何の恐れも抱くことなく、人間の尊厳に対する不可侵の権利を保障されて、黒人も白人も、すべての南アフリカ人が胸を張って歩くことができるような社会を、すなわち自分自身と世界に対して平和的な「虹の国」を、建設していくということを。・・・この美しい土地が、ある者による他の者の抑圧を再び経験し、世界の鼻つまみ者になるという屈辱を受けることなど、決して、決して、繰り返されてはならない。自由が支配する、アフリカに祝福あれ。<峯陽一『南アフリカ 「虹の国」への歩み』1996 岩波新書 p.7-8>

大統領退任と死去

 1994年に大統領に就任したマンデラは、デクラークなど国民党の白人政治家も閣僚に加えて人種宥和政策に積極的に取り組み、「虹の国」の建設を進めた。その象徴として、国旗や国歌を新しく制定、1995年にはラグビーのワールドカップが開催され、南アチーム(スプリングボックス)が優勝し、国民融和の気運が盛り上がった。しかし、経済政策では成長を優先して急激な改革はおこなわなかったので、貧富の差の拡大、治安の悪化などが進んでしまい、課題を残した。1996年、新憲法が制定され、部族語もふくめて11の言語を公用語とするなど人種・民族の融和を謳った。大統領就任時にすでに76歳であったので、任期は一期で終わり、1999年6月に大統領を辞任した。
 後任にはANCの急進派ターボ=ムベキが選出されたが、国民党の連立離脱、さらにANC内の急進派と穏健派の対立、ムベキ政権の汚職疑惑など困難が続いた。2010年6月にはサッカーのワールドカップ(サッカー)が南アフリカで開催され、開会式への出席が期待されたが、前日にひ孫が交通事故に遭うという不運によって実現しなかった。閉会式には参加し、健在をアピールしたが、すでに前立腺癌の治療を受けており、体力の衰えは隠せなかった。2013年6月、肺の感染症によって入院、12月5日に95歳で死去した。 → 現在の南アフリカ共和国
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ノートの参照
第15章3節 ウ.第三世界における強権支配の後退
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峯陽一
『南アフリカ 「虹の国」への歩み』
1996 岩波新書