農耕・牧畜
食物その他の生活物資を、植物の栽培、動物の飼育によって確保する人類の生業。狩猟・採集という獲得経済から、生産経済への転換をもたらし、人類の社会を大きく変えた。
新石器時代への移行
農耕・牧畜の始まり
食糧生産が開始された地域として知られるのが、現在のイラン・イラク・シリア・ヨルダン・レバノン・イスラエルにまたがる、レヴァント地方である。この地域には野生の大麦や小麦が生育しており、まず紀元前10500~8500年頃この地に麦類を採集し、野生の山羊などを狩猟して生活するナトゥファン文化が興った。彼らは収穫用の石器や加工用の石臼、石皿など磨製石器を造り、紀元前7000年頃になって麦類の栽培を始めたらしい。農耕の起源についてはまだ不明な点が多いが、この西アジアから東地中海域にかけての地域(古来、「肥沃な三日月地帯」と言われている)が有力視されている。また、中国文明では前6000年頃に、農耕文明が黄河中流域と長江中流域で興ったと考えられている。麦の栽培 野生の麦は秋に発芽して少し生長し、冬を越して春に急成長して春の終わりに種を残して枯れてしまう。一般的な植物は夏に生長するが、麦は秋から春にかけて生育する。西アジア・環地中海地域は夏に降雨がないので、麦が生きていくには最適の場所だった。肥沃な三日月地帯は野生の麦の宝庫だった。また、麦の粒はそのまま煮炊きしても人間にはそれを消化する能力がなく、粒を臼でひいて粉にして、それに水を加えてポタージュ・スープにするか、水を加えて練った小麦粉の固まりを間接火で焼けばパンになる。麦を食べるにはこのように手間がかかるが、肥沃な三日月地帯の人びとがあるときその技術を獲得した。また麦は収穫の総てを食べてしまうのでなく、種を保存しておいて秋に地面に巻けば、まいた種の何倍もの収穫があることを知るようになった。これが今から約9000年ほど前の農業の始まりだった。<後藤明『イスラーム世界史』2001 角川ソフィア文庫 p.25->
牧畜の始まり 肥沃な三日月地帯には野生の小麦を食べる羊や山羊がいた。夏場の小麦がない時期に、人間は井戸を掘って水場をつくり、寄ってきた羊や山羊の群れを管理するようになった。これが家畜の飼育の始まりだ。やがて人びとは羊・山羊の乳を利用することをおぼえる。乳はすぐ腐ってしまうが塩入のバターやチーズにすれば長持ちする。春に子山羊・子羊が生まれると、オスは数頭を残して食べてしまい、雌だけを成長させて乳をとる。これで肉も乳も手に入った。これが牧畜の始まりで農業の始まりとあまりかわらない、7~8000年前であろう。
洋食の体系できる 大麦を発芽させて水を加えればビールができる。肥沃な三日月地帯はキュウリ、ニンジン、ナス、レタスなどの原産地でもある。またブドウの栽培にも適しており、ブドウを潰したブドウ汁は数ヶ月たてばワインができる。パン、バター、肉、野菜、スープ、ビール、ワインという洋食の飲食体系は数千年前の西アジアの一角で生まれたのだった。<後藤明『前掲書』 p.26-8>
農耕牧畜の始まりと気候変動
旧石器時代から新石器時代への移行は長期にわたる変化であり、また地域的にかなりの違いがあるが、まず「肥沃な三日月地帯」が形成される条件となった氷河期の終了と温暖化については新たな見方が出されている。氷河期の形成と消滅の繰り返しには、地球の公転軌道の離心率の変化、自転軸の傾きの周期的変化、さらに自転軸の歳差運動という三つの要因があることが20世紀にセルビアの天文学者ミランコヴィッチによって明らかにされた。ミランコヴィッチの変動理論<注>はその後、1970年代の各地の氷河や湖沼に残された痕跡の科学的調査によって、ほぼ10万周期の氷期と間氷期という大きな気候変動と、4万年周期および2万年周期の気候変動(亜氷期と亜間氷期)の組合せであることが判明した。
<注>ミランコヴィッチ理論は日本の福井県若狭地方にある水月湖という小さな湖の湖底に堆積した泥の層の分析からさらに深められ、修正が加えられている。水月湖は「奇蹟の湖」として世界中の古気候学者から注目を浴びているという。<中川毅『人類と気候の10万年史』2017 講談社ブルーバックス>
最後の氷期のピークが約2万年前に訪れ、その後は温暖化に向かったが、1万8千年前(オールデストドリアス期)、1万5千年前(オールダーデリアス期)、そして1万2千年前(ヤンガーデリアス期)にも急激な寒冷化が訪れ、この最後の寒冷期が終わってからほぼ温暖で安定した気候が現代まで続いており、この気候変動が農耕の開始の大きな要因となったとみなされている。
ヤンガードリアス期に西アジアで食糧獲得の手段として農耕が模索されるようになったが、それはかつて考えられたような8000~7000年間に農耕革命がおこり、定住集落が出現し急速に普及したという見方は現在では否定され、定住集落の出現は1万年前よりさらにさかのぼり、そこにいたるまで数千年という長大な時間がかかったと考えられるようになった。最古の農業はすでに(寒冷期であるオールダーデリアス期の)1万3千年前に東南アジアではタロイモやヤムイモなどの根菜農業があった可能性が高く、また同じころ西アジアのレヴァント地方では狩猟採集民ナトゥーフ人が大きな洞窟の中に竪穴住居をつくっている。しかし、1万2千年前の最後の寒冷期ヤンガーデリアス期が到来し、定住生活はいったん消滅した。
最後の寒冷期が終わって再度温暖化が始まり、1万1500年前に西アジアで再び定住生活にはいり、彼らが農耕に取り組み始めた。初期の定住生活は一定期間後に移住しなければならないことが多かったと思われるが、そのような移住の経験を積み重ねる中で、穀物が突然変異によって適地を見出し、より本格的な農耕集落を作っていったと思われる。肥沃な三日月地帯では農耕は始まる前から野生のイネ科のムギを採集していたが、野生のムギは種子をなるべく広い範囲に散らすため種子を含んだ小穂が脱落するようになっていた。これだと採集するのが手間がかかる。ところが突然変異で非脱落種のムギが現れると、それは人が穂から小穂を脱穀して播種しなければ次の世代を残せない。栽培種のムギは、この脱落性を有する野生種の遺伝子に突然変異が起きて非脱落性の遺伝子をもつ一粒のムギの個体に遡る。<青柳正規『人類文明の黎明と暮れ方』興亡の世界史①2009初刊 2018 講談社学術文庫 p.105-114>
動物の家畜化
人類が最初に家畜化した動物は、羊(ヒツジ)とヤギであった。その場所は西アジアの地中海に近い地域、今日のレバノン、イスラエル、パレスティナ、いわゆる「肥沃な三日月地帯」の一部であった。年代は前7600年ごろ、すなわち今から1万年前近く前のことと考えられている。その少し前に人々は大規模な定住的集落をいとなむようになり、農耕(野生麦の栽培化)を始めていた。また彼らは集団で追いこみ猟をおこない、羊やヤギを群ごと捕獲して集落のなかに設けた囲いに収容し、一度に全部は殺さずに一部は生かしておくようになった。その囲いの中で子どもが生まれれば、その子どもはもはや野生ではなく、家畜に近い。囲いのなかで世代交代が起これば、完全な家畜の誕生である。農耕がおこなわれていれば、穂だけ刈り取られたあとに残った茎が家畜の餌にもなる。つまり、大型定住集落と農耕の確立が、家畜化の前提だったのである(藤井純夫『ムギとヒツジの考古学』)。<林俊雄『遊牧国家の誕生』世界史リブレット98 2009 山川出版社 p.10>羊・ヤギにやや遅れて前7000年ころには、肥沃な三日月地帯の西北部で牛と豚の家畜化も進行したらしい。馬の家畜化の年代については、現在議論が真っ二つに割れている。前4000~前3500年ころに草原地帯で馬の騎乗が始まったとする説と、前3000年ころからようやく肉用に馬を飼うようことが草原で始まり、前2000年ころからメソピタミアで騎乗が始まったが、普及するのは前十~前九世紀とする説が対立している。しかし近年の考古学の発掘成果とその分析に基づけば、後者の説の方が分があると考えられる。<林俊雄『同上書』 p.12>
なお、動物の家畜化の時期については林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』興亡の世界史 2007初刊 2017 講談社学術文庫により詳しい記述がある。
農業による環境破壊
農耕の開始によって定住型の社会が成立し、人口は着実に増加した。人口の増加は、環境に対する負担を増大させる。気候が温暖で降水量が安定し、土壌も肥沃な温帯地方では人口圧力に耐えることができて、負担は少なかったが、その他の地域では農耕が始まってから1000年も経たずにその影響が現れ始めた。(引用)農業という言葉は、人類に都合のいい動植物を育てるために、自然の生態系を破壊して人工の生活空間を作るという意味を含んでいる。すなわち、農業を行うことで生態系が本来的に備えているバランスや固有の安定性は失われてしまう。自然状態の地表は多様な植物によって半永久的に覆われているが、農業が始まると少数の作物が一時的に空間を利用するだけになる。地表は激しい風雨にさらされ、自然の生態系の場合に比べて土壌の浸食速度ははるかに速くなる。農地が一年のある期間、裸地状態になるような地域では、土壌浸食は特に深刻である。栄養塩の循環サイクルもとぎれてしまい、土壌を肥沃な状態で維持するためには畜糞や堆肥などの形で養分を加えてやることが必要になる。<クライブ・ポンディング/石弘之他訳『緑の世界史』上 1994 朝日選書 朝日新聞社 p.117-118>潅漑農業は降雨だけにたよる天水農法よりさらに人工的な環境を作り出すので、生態系に破壊的な影響を及ぼす。