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アルデシール1世/アルダシール1世

226年、パルティアを征服し、ササン朝ペルシアを建国、初代の王となった。アケメネス朝の継承をかかげ、ゾロアスター教を復興させた。

 アルデシール1世はイランのササン朝ペルシア、初代の国王。アルダシール1世、アルダフシール1世とも表記。ササン朝というのは、彼の祖父のササン(サーサーン)から来ているが、ササンがどのような人物かは判っていない。ササン家はペルセス(パールス)地方のゾロアスター教大寺院の世襲の守護者であったようで、3世紀の初めごろ、アルダシールの父がパルティア王国から自立して地方政権を樹立、その末子のアルデシールがその地位を継承した。

パルティアを滅ぼし、ササン朝を建国

 アルデシールは、224年にパルティア軍を破り、国王アルタバーヌス5世を殺害した。アルデシールはさらにイランの西部地方を従え、226年クテシフォンを征服してパルティア王国を滅ぼし、自ら「王の王」として戴冠した。イランのナクシュ-イ-ロスタム(ナクシェ=ルスタム)の断崖にはアルデシールがアフラ=マズダ神から帝位を授けられたシーンの浮き彫りが残されている(下掲)。
 アルデシールは軍事的に成功しただけでなく、アケメネス朝ペルシア国王の後継者を自称してその再興を掲げ、ゾロアスター教を保護することによって自らの正当性を演出し、パルティアに代わる支配権を獲得した。西北のアルメニアは抵抗を続けたが、237年には降伏し、アルデシールは東は中央アジアから西はユーフラテス川に至る広大な帝国を支配することとなった。
 240年、ユーフラテス川上流のハトラ攻撃中に没し、長男のシャープール1世が王位を継承し、ササン朝の基盤を作った。パルティア時代から、地中海方面から西アジアに進出してきたローマと戦っていたが、ササン朝も対ローマの戦いを継続する。

出題 立命館大学 2010年

アルデシール1世
2010立命館大学入試問題より
 右図は、イランのナクシェ=ルスタムにあるアルダシール1世騎馬叙任式図の磨崖浮彫である。( A )を破ったアルダシール1世は( B )を建国し、ゾロアスター教を国教に定め自らを「諸王の王」と称した。向かって左側がアルダシール1世であるが、向かって右側でディアデム(王位の標識であるリボンのついた環)をアルダシール1世に手渡そうとしている人物はゾロアスター教の最高神( C )である。この文の空欄を埋めよ。(改)

解答


アルデシール1世の最近の説明

 アルデシール1世は中世ペルシア語ではアルダフシール1世と表記するのが正しいとされる。最近の歴史書での彼の説明は、次のようにされている。
(引用)224年5月28日にオフルマズダーン会戦で、アルシャク家最後の大王アルダヴァーン4世を討ち取ると、アルダフシール1世は、メソポタミア平原の中枢にしてアルシャク朝の首都でもあるテースィフォーン(=ギリシア語でクテスィホン)に入城し、ここをサーサーン朝の京師に定めた。コインの打刻銘が伝えるところでは
「マズダー崇拝者の神なるアルダフシール、アーリア民族のシャーハーン・シャー、神々の末裔(マーズデースン・バイ・アルダフシール、シャーハーン・シャー・エーラーン、ケー・チフル・アズ・ヤズダーン)」
と宣した。甚だ宗教的な「マズダー崇拝者」、「神々の末裔」との表記が加わり、称号が単なる「シャー=王」から「エーラーン・シャフル=アーリア民族の帝国」の「シャーハーン・シャー=皇帝(原義は諸王の王)」に昇格していることがわかる。<青木健『ペルシア帝国』2020 講談社現代新書 p.135>
 イラン高原西南部のペルシア州から軍を興し、メソポタミア平原を制圧して新王朝を創始したアルデシール(アルダフシール)1世は、ペルシア州の州都アルダフシール・ファッラフなど各地に8つの都市を造営した。また従来あまり注目されていなかったが、ペルシア湾岸に海軍基地を設け、インド洋貿易にも進出したことが考えられる。しかし、ササン朝の直轄領はアルデシールが平定したペルシア州からメソポタミア平原であり、それ以外の地域はパルティア以来の大貴族が残っていた。この段階の権力はササン家と旧来のパルティア系大貴族の連合政権という性格が強かった。<青木健『ペルシア帝国』2020 講談社現代新書 p.136-141>