スパルタの軍国主義
古代ギリシアのポリス、スパルタの軍事優先の国家体制。少数の支配者である市民が、多数の奴隷や半自由民を支配する必要から、戦士として有能な市民を育てる教育体制がとられた。
古代ギリシアの代表的ポリスの一つであるスパルタにおいては、支配者として少数の市民が多くのヘイロータイ(奴隷)とペリオイコイ(半自由民)を支配する社会であり、また他のポリスとの軍事的緊張が絶えず続いたことから、個人や家庭よりも国家防衛を最優先にする軍国主義がとられていた。そのような社会で、兵士として有用なで市民を育てる目的で独特の厳しい教育がおこなわれていた。それが「スパルタ教育」の起源である。
スパルタ教育
スパルタの市民は、クレーロスから収穫される現物を「共同食事」にもちよって集団で夕食をとっていた。また子供が生まれると、部族員の集まる集会所で検査され、健康と体力に弱点のあるものはタイゲトス山麓の穴に落とされた。これは、子供は親の私物ではなく、国家のものである、という考え方から生まれた制度である。子供は七歳になると国家の養育所に入れられて、少年隊に編入され、共同生活の中で、思慮深さとか勇気・忍耐など、長じてスパルタ市民として有能なものになるための「良さ」すなわちアレテーをつくりだすように仕向けられる。……<太田秀通『スパルタとアテネ』1970 岩波新書 p.87~による>軍国主義下の市民生活
(引用)個人や家よりも国家が優先する。これがスパルタの市民生活の大きな特徴である。産まれた子供は国家の検査を受け、満足に育たぬと見れば険峻なタユゲトス山中に棄てられた。検査に合格した男児には、厳しい半生が待っている。七歳になれば親もとを離れ、18歳まで国家の手によって将来の国防の担い手としての訓練が施される。少年たちは個々の家の子供でなく、スパルタ市民団全体の子として遇されたのである。
二年の見習い期間を経て、二十歳からは正式に軍隊に編入され、三十歳まで団体生活を送らねばならない。それを過ぎると、はじめて青年たちは家に帰ることを許される。それまでは結婚しても、兵営から抜け出して妻のもとにかよい、束の間の逢う瀬を楽しむのが精一杯だった。
かといって、三十歳に達して家に戻っても、満足な家庭生活を営む余裕は彼らにはなかった。戦士たる男子市民は、それぞれの家から糧食をもち寄って、グループごとに共同の夕食をとる。この共同食事はスパルタ市民の大事な務めであり、これに出席できない者は市民としての資格を失うものとされた。一家団欒などはスパルタ人の想像の及ばぬところだった。<伊藤貞夫『古代ギリシアの歴史』2004 講談社学術文庫 p.156-157>
Episode プルタルコスの伝えるスパルタ教育
プルタルコスは『英雄伝(対比列伝)』において、スパルタの赤児の選別を次のように伝えている。これが「スパルタ教育」の内容である。(引用)父親は生まれた子供を育てる完全な権限はなく、レスケーと呼ばれる場所(集会所)へ子供を抱いて連れていった。そこには部族員のうちの最年長者たちが座し、赤児をよく検査して、もししっかりしていて強壮であれば、その子に九千の持分地のうちの一つを割当てて、育てるように命じた。しかし、もしその子が劣悪で不格好であれば、そもそものはじめからまったく健康と体力向きに生まれなかった子が生きるということは、その子自身にも国家にもよくないとして、タユゲトス山の傍のアポタテイといわれる深い穴のような場所へ送り出した。<プルタルコス『英雄伝』リュクルゴス伝 村川堅太郎編 ちくま学芸文庫版 上 p.76>また、「スパルタ教育」の実態は同じく次のように伝えている。
(引用)さて、彼らは文字は有用性のために学んだが、その他のすべての教育も、立派に支配を受け、苦労して忍耐し、戦って勝つことのために行われた。それゆえ、人々は年齢が進むと男の子たちの訓練の厳しさを増やし、髪の毛をすっかり剃ってはだしで歩み、たいていは裸で遊ぶことに慣れさせた。十二歳になると彼らはもう下着なしで生活し、一年間に一枚の上着を与えられるだけで、身体はかさかさしても沐浴や塗油をすることはなかった。・・・彼らのある者たちは菜園に出かけ、またある者たちは大人の共同会食場へ忍び込んで、まことに狡猾かつ用心深く盗んで持ってくる。もし捕まると、不注意、不手際に盗もうと思っているというので、彼は鞭でたくさん打たれる。彼らは食物ならば何でも盗めるものを盗み、眠っている者や見張りをいい加減にしている者を上手に攻撃することを学ぶ。捕まった者への罰は打擲と空腹である。彼らが自分の力で欠乏から身を守ろうと、大胆になり狡猾になることを余儀なくされるように、彼らの食事は見すぼらしいのである。<同上 p.78,79>→ ヘイロータイの項参照