王政(モナーキー)
古代ギリシアのポリスにおいて最初に見られる政治形態。単独者による世襲的、専制的な支配が行われた。次第に貴族政に移行する。
古代ギリシアのポリスにおける、最初の政治形態である王政 Monarchy (モナーキー)は、単独(mono)の支配者(alkhos)による政治を意味していた。典型的なポリスであるアテネにおいては、ポリスの成立期の有力な指導者であったバシレウスのことを「王」と言っている。王政は、貴族政・僭主政をへてアテネ民主政へと転換していく。
同じく伝承によれば、アテネでは王権が三分され、軍事の大権を握るポレマルコス、政治の実権を掌握するアルコンの職が設けられ、王は祭祀に関する権限に限定されるようになったという。これらは当初世襲されていたが、前8世紀の半ば頃、アルコンなどの三役に十年任期制が導入され、メドン家の王政は名実ともに消滅した。
ギリシアのポリスにおいてはオリエントにおけるような王政(世襲制の君主が専制的な権力をもつ統治機構、専制君主政=デスポティズム)はアテネ以外でも発展しなかった。スパルタの王も共同体の指導者と言うにとどまった。潅漑農業の管理を通じて広い地域を一つの権力が統治する必要があったオリエントに比べて、ポリスという小さな国家では強大な王の存在は必要が無かったのであろう。
アテネの王政
イオニア人のポリスであるアテネには最初の王としてテセウス(ミノタウロスを退治したとして名高い)の名が伝わっているが、伝説的なことで実証はできない。前1200年頃の民族大移動に伴うミケーネ文明の崩壊により、アテネには避難民が大量に流れこみ、その中の有力者(バシレウスといわれた人々)の一人であったメラントスという者がアテネの王位をつき、その子で王位を継いだコドロスは外敵(ドーリア人)を撃退してアテネを救ったという。コドロスは戦死し、二人の子のメドンとネーレウスに相続争いがおこり、メドンが勝って王位を継承、敗れたネーレウスはアテネの人々の一部を率いてイオニアに渡ったという。<伊藤貞夫『古代ギリシアの歴史 ポリスの興隆と衰退』2004 講談社学術文庫 p.84,87,161>王政から貴族政へ
このように、ポリスの成立期のシノイキスモス(集住)の過程で、その最も有力な指導者(バシレウス)が、ミケーネ時代の王に準ずる地位を占めるようになった。そのようなポリス共同体の指導者としての王は、スパルタでは長く存在したが、アテネでは次第に複数の有力者が貴族として共同体を率いる寡頭政治である貴族政に移行していった。同じく伝承によれば、アテネでは王権が三分され、軍事の大権を握るポレマルコス、政治の実権を掌握するアルコンの職が設けられ、王は祭祀に関する権限に限定されるようになったという。これらは当初世襲されていたが、前8世紀の半ば頃、アルコンなどの三役に十年任期制が導入され、メドン家の王政は名実ともに消滅した。
ギリシアのポリスにおいてはオリエントにおけるような王政(世襲制の君主が専制的な権力をもつ統治機構、専制君主政=デスポティズム)はアテネ以外でも発展しなかった。スパルタの王も共同体の指導者と言うにとどまった。潅漑農業の管理を通じて広い地域を一つの権力が統治する必要があったオリエントに比べて、ポリスという小さな国家では強大な王の存在は必要が無かったのであろう。