ギリシア(ギリシャ)
ギリシアをどうとらえるか考えよう。古代ギリシアの文明は人類の模範とされた。しかし、現代との落差をどう考えたらいいのだろう。
ギリシアとは:
私たちが「ギリシア」といっているのは、英語表記での Greece のこと。ところが現代のギリシア人は自分の国をギリシアとも Greece とも言わない。彼らは、古代においては自らをヘレネス、その地をヘラスと言ったが、これは古代ギリシア語であり、現代ギリシア語ではエラダというそうだ。ギリシアとはローマ人が使った言葉からきており、ギリシアの言葉ではなかったのです。国名や人名の表記はむずかしいですね。こういう例は日本でたくさんあります。なお、ギリシアかギリシャか、はこだわる必要はなさそう。外務省のページやWikipediaではギリシャになってますが、世界史教科書や歴史書ではギリシアが多いようです。ギリシアは漢字では「希臘」と書く。何故だろう。 古代ギリシア人は自らの土地をヘラスと言い、それが現在のギリシアの国号の英語表記 Hellenic Republic につながっている。この国を「ギリシア(またはギリシャ)」と言っているのは日本だけで、それはポルトガル語の Grécia から来ており、そのまたもとはラテン語の Graecia(グラエキア)である。これはヘラスに住む一部族名にすぎなかったが、ローマ人が誤って全部を呼ぶようになったらしい。本来はヘラスが正しく、それが古代中国に伝わり、「希臘」と書かれるようになった。希臘が古代中国の発音でヘラスに最も近かったのであろう。日本ではポルトガルの影響でギリシアというようになったが、文字表記だけは漢字の「希臘」が残ったのだった。 → ヘラスの項を参照
古代ギリシアの概略:
ギリシアはバルカン半島の南端部に位置し、地中海の東部、西をイオニア海・東をエーゲ海にはさまれ、エーゲ海のクレタ島を始めとする多くの諸島を含む。ギリシア人の活動範囲は、現在のトルコ領である小アジアの西岸(イオニア地方)の他、地中海各地に設けられた植民市に及んでいた。エーゲ文明 まずエーゲ海域が交易のルートとして早くから発展し、オリエント文明の影響を受けながらエーゲ文明が生まれた。その前半はクレタ島を中心とした海洋文明であり、クレタ文明といい、後半は本土のミケーネを中心としたミケーネ文明とされる。ともに青銅器文明であるが、クレタ文明はギリシア人ではないアジア系の海洋民族が作った海洋国家であり、インドヨーロッパ語族のギリシア人が前2000年紀を通じて長期にわたって南下してギリシア本土に定住しミケーネなどの小王国を作った段階がミケーネ文明である。それぞれ線文字Aと線文字Bという文字も使用しており、後者は解読されている。
「暗黒時代」は初期鉄器時代 前1200年頃、恐らくは海の民の侵攻などによってミケーネ文明は崩壊し、その後に先住民であるイオニア人の地に北方から鉄器文化をもつドーリア人が移住して来た。この混乱の中で人々は、前8世紀ごろから集住を開始してそれぞれの都市国家(ポリス)が生まれた。このミケーネ文明の崩壊からポリスの形成までの期間は、かつては暗黒時代といわれていたが、現在はそのような否定的な言い方ではなく、鉄器文化への移行とともに都市国家が形成された時代として、初期鉄器時代と呼称されるようになっている。
ポリスの形成・発展 ギリシアは平地や大河には恵まれず、山地が多いことから、大国は出現せず都市国家ポリスを発展させた。同時に鉄器時代に入ったことで人口が増加し、ポリスに収容しきれないギリシア人は、地中海各地に植民市を建設するようになり、地中海交易で経済を発展させ、それと共に中産市民階級が成長し、政治形態で民主政を実現させるポリスも現れた。
アテネとスパルタ 有力なポリスの一つのアテネでは、王政・貴族政・僭主政をへて市民が重装歩兵としてポリスの防衛の主体となることによって民主政を確立していった。一方、スパルタは王政を維持し、強固な軍国主義によってペロポネソス同盟の盟主となり、アテネに対抗しながら一時は覇権を握っていた。
ペルシア戦争 イラン高原のペルシア帝国が小アジアからギリシアに支配を拡張しようとしたことから、5世紀前半にペルシア戦争が起こった。ギリシアの諸ポリスにとっては大きな危機であったので、アテネとスパルタが協力して戦い、陸上での重装歩兵の密集戦法や海上での三段櫂船を駆使た戦いでペルシア帝国の侵攻を撃退した。この危機の中でアテネではペリクレスの主導により民主政の仕組みを作り上げ、アクロポリスの造営など最盛期を迎えた。
ペロポネソス戦争 ペルシア戦争後、アテネはデロス同盟を結成してその盟主となり、ペルシア帝国に備えた。しかし次第にアテネの支配は同盟諸国に対して強権的になり「アテネ帝国」と言われるような覇権国家となっていった。アテネの強大化に対してペロポネソス同盟を率いるスパルタとの関係は次第に悪化し、両陣営の対立が深刻となって前5世紀末には27年間に及ぶペロポネソス戦争に突入した。長期にわたった戦いの結果、スパルタが勝利したが、その後もポリス間の抗争が続いた。アテネでは衆愚政治と言われる政治の混乱などから、ポリス民主政は次第に衰退し、覇権をめぐるスパルタやコリント、テーベ(テーバイ)などの争いが続いた。
マケドニアの台頭 この間、北方の王政国家であるマケドニアが急速に台頭、フィリッポス2世が前338年にポリス連合軍をカイロネイアの戦いで破り、ギリシアのポリスをコリントス同盟の支配下に入れた。スパルタ、アテネなど有力なポリスは形式的な都市国家としての独立と自治は維持されたが、かつてのポリス民主政は形骸化していった。
ヘレニズム時代 マケドニアのアレクサンドロス大王は、前4世紀の後半、東方遠征を開始してペルシア帝国を滅ぼし、東地中海からインダス川流域におよぶ大帝国を建設した。これによってギリシア文化はオリエント文明と融合することとなり、ヘレニズム時代が出現した。大王死後もギリシア系のヘレニズム国家に継承され、ギリシアの地はアンティゴノス朝マケドニアが統治した。ギリシア諸都市の中にはマケドニアに対抗して同盟したものもあり、前3世紀前半にペロポネソス半島北部のアカイア地方の諸都市はアカイア同盟を結成した。スパルタとアテネはマケドニアにも、アカイア同盟にも属さず独立を維持したが、その両勢力のあいだで常に不安定な状態だった。
ローマの支配 前3世紀までにイタリア半島を統一したローマは、東地中海にも進出、マケドニアをマケドニア戦争によって前168年に滅ぼし、ギリシア支配に乗り出した。ついで前146年にはアカイア同盟の一員であったコリントを征服、破壊した。さらに、小アジアのミトリダテス戦争に際して遠征したローマの将軍スラは、前86年、抵抗したアテネを攻撃し、制圧した。これによってアテネの政治的自治は終わりを告げた。ギリシアはこうしてローマ共和政の時代に属州として支配されることととなり、ローマ帝国のもとでも分割されて属州として続いた。
古代ギリシアは何処に行った?
高校での世界史の学習では、ギリシアはローマに征服されたことによって、忽然と姿を消してしまう。その土地が消えてしまったわけではないし、そこに住む人々の歴史は依然として続いたはずであるが。その後のギリシアがどうなってしまうのか、ここで簡単に見ておこう。ローマからビザンツへ ローマ帝国は395年に東西に分裂、ギリシアの地はコンスタンティノープルを都とした東ローマ帝国が支配する。東西ローマは、特にキリスト教会の東西分裂によって、ローマ=カトリック教会と分離、対立することとなったギリシア正教会のもとで、西ヨーロッパのキリスト教世界とは異なるビザンツ帝国に支配された中世ギリシアの時代へ繋がっていく。
十字軍時代 7世紀にアラビアに登場したイスラーム教は、エジプト、シリア、小アジアを次々と征服し、ビザンツ領はほぼギリシア本土のみとなった。ビザンツ帝国の要請から始まった十字軍運動は、キリスト教文明がイスラーム文明と接触する機会ともなったが、ヨーロッパに古代ギリシアの文献が伝えられたのは、むしろイスラーム文化を介してであったことは重要である。
オスマン帝国の支配 このあたりまでは、ギリシア文明の栄光が残っていたといえるであろうが、1453年にオスマン帝国によってビザンツ帝国が滅ぼされ、バルカン半島全体がイスラーム化が始まると、いわば古代ギリシアの栄光の要素は次第に失われ、民族意識も言語も大きく変貌していく。
西欧人の古代ギリシアへのあこがれ
オスマン帝国の支配力が弱くなった18世紀末から、いわゆる東方問題が起こり、キリスト教ギリシア正教徒の自立を目指す運動が始まる。そしてウィーン体制下の自由主義や民族主義が一つのはけ口として求めたのが、ギリシアの解放だった。“ギリシア愛護主義(フィルヘレニズム)”を掲げる西欧諸国の支援によって独立戦争を展開し、1830年にギリシア王国として独立してからが近代ギリシアとすることができる。一貫した「ギリシア」は存在するか?
この間一貫したギリシア史としての要素があったかというと、そうは言えず、人種・言語・宗教などで全く違った時代と考えた方が正しい。言語の面では民衆の使うギリシア語(ディモティキ)は、古典時代のギリシア語とは全く違ったものになってしまっていたが、ギリシア独立運動の中で、古典ギリシア語(カサブレサ)を復興させようという気運が起き、独立後にはそのいずれを公用語とするかで議論となった。それがギリシア語論争といわれるものである。参考 「古代ギリシア=ユートピア」史観の克服
しかし、古代ギリシアと現代ギリシアを断絶しているという見方に対しては厳しい批判が出されている。周藤芳幸氏は、古代ギリシアを研究するならギリシアではなくオックスフォードやプリンストンに行くのが早道であることを認めながら、自らがそうしたように「古代ギリシア史と正面から向き合うためには、どこかの時点で一定の期間をギリシアで暮らし、ユートピアではない現実のギリシアに肌で接することが不可欠である」と言っている。(引用)ホメロスの英雄たちのようなギリシア人との出会いを期待してやって来た彼らは、現実と大きなギャップにさぞ落胆したことだろう(現代を舞台にこのようなギャップをコメディに仕立てたのが、メリナ・メルクーリが主演した有名な映画『日曜はダメよ』である)。そこから生まれてきたのが、「いまのギリシア人は、古代のギリシア人とは別物である」という言説である。そして、この言説は、十九世紀に人種主義が脚光を浴びると、民族移動による混血説などの科学的な装いを通じて、正当化されていくことになる。古代ギリシアに対するユートピア史観は、このような同時代のギリシアに対する蔑視の裏返しとして発展してきたのである。<周藤芳幸『物語古代ギリシア人の歴史―ユートピア史観を問い直す』2004 光文社 p.7>
近・現代ギリシア
19世紀から20世紀にかけて、ロシアの汎スラヴ主義とドイツ・オーストリアの汎ゲルマン主義がしのぎを削ったバルカン問題にギリシアも巻き込まれ、第一次世界大戦を迎えた。 → 近代のギリシア第一次世界大戦 大戦には連合国側に加わり、同盟国側のトルコが敗北したことに乗じてギリシア=トルコ戦争を仕掛け、スミルナの奪還を目指したが、失敗した。1923年にトルコ共和国が成立すると、互いの領内に残った民族を交換する「住民交換」を行い、数々の悲劇を生んだ。その混乱から、ギリシアは一時共和国となったが、36年に王政に戻った。
第二次世界大戦 第二次世界大戦末期にイギリスのチャーチルとソ連のスターリンはパーセンテージ協定といわれる秘密協定を結び、ギリシアは戦後、イギリスの管理下に置かれた。1946~47年は国王派と共産勢力の激しい
ギリシア共和国に移行 1975年に王政を廃止しギリシア共和国に移行し、ギリシアの民主化が進んだ。1981年にECに加盟、ヨーロッパの一員としての立場に立つことになったが、隣国のトルコとの間にエーゲ海領海問題、キプロス問題などの火種は残った。