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重装歩兵(ポプリーテス)・密集部隊(ファランクス)

古代ギリシアの平民が武装した兵力(ポプリテス)。密集部隊(ファランクス)を編成し、ペルシア戦争などでギリシアの強力な戦力となった。重装歩兵としての市民戦士はポリス民主政の中核となった。

古代ギリシア・ポリスの兵制

重装歩兵像
青銅製の重装歩兵像
(前500年頃)
『ギリシャ・ローマの戦争』p.110
 古代ギリシアのポリス(都市国家)の兵力は職業的な軍人や、国民皆兵的な徴兵制度ではなく、ポリスの市民が義務として武器を自弁して武装し、ポリスの防衛に当たるものであった。はじめは馬を所有する上層の平民である貴族がポリスの防衛の中心となっていたが、手工業が発展し、貨幣経済の浸透によって武器の価格が下落すると一般の平民も武器を自弁し、歩兵として国防に参加するようになった。彼らは動きやすい鎧と甲、大きな楯を持ち長い槍を使ったので重装歩兵(ポプリーテス)と言い、その戦術は盾を揃えて密集部隊(ファランクス)を組んだ。この重装歩兵密集部隊(ポプリーテス=ファランクス)がポリス市民軍の中核としてポリスの防衛に活躍するようになって平民の地位を向上させ、市民の成長が実現していった。 → ローマの重装歩兵 三段櫂船

重装歩兵革命

 このような騎兵を主力とした乱戦スタイルの戦闘から、重装歩兵による組織的戦闘への変化という戦術上の変化を重装歩兵革命といい、それによって平民の成長を背景にしてポリス民主政が成立したと考えられている。ギリシアの壷絵には、有名な「キージの壷」(教科書・山川『詳説世界史』p.35に写真がある)に描かれたような重装歩兵の戦闘場面を見ることができる。<ハリー・サイドボトム『ギリシャ・ローマの戦争』2006 1冊でわかるシリーズ 岩波書店 p.51>

重装歩兵の密集部隊(ファランクス)戦術

重装歩兵密集部隊
キージの壺絵に描かれた重装歩兵密集部隊。
『ギリシャ・ローマの戦争』p.51"
 ギリシアのポリス民主政の時代、市民は重装備で武装して重装歩兵(ポプリーテス)となり、密集して敵に当たる密集部隊(ファランクス)の戦術をとった。ホメロスの物語にも登場するが、本格的に用いられるようになったのは、鉄器時代に入り、武器が安価になって一般市民が武器を自弁できるようになった前7世紀ごろからと思われる。教科書などに重装歩兵密集部隊を示す物としてよく出てくる壷絵は前7世紀中頃の物である。武器で重要なのは盾で、貴族たちが用いていたのは首から革ひもで吊って支える大型の物だったが、重装歩兵の盾は小型になり、裏側の中央部に輪が付いていて、それに腕を通し、把手を握って盾を構え、頭と足は甲と脛あてで守る。そして兵士同士が隙間無く密着して隊列を組み、槍をそろえて敵に突っ込んでいく。このような戦術は、騎士が一騎打ちで戦う貴族政に代わり、平民が国防の主役となった共和政の時代に対応していた。ペルシア戦争では、ペルシア軍は昔ながらの騎兵と弓による戦術だったので、ギリシアの重装歩兵密集戦術が効果的だった。またこの戦術をとるためには、市民の団結心と日頃からの集団訓練が必要となり、戦士共同体としてのポリス社会にもっとも適合した戦術でもあった。ギリシアの戦術は、アレクサンドロス時代まで、基本的には重装歩兵密集部隊戦術をとった。<サイドボトム/澤田典子訳『ギリシャ・ローマの戦争』2006 岩波書店 p.51より>

Episode 戦闘方法を変えた楯の変化

 前7世紀の初めごろ、ギリシア人の武器の上に一見小さいが重要な変化が生まれた。それは在来肩から吊られて全身を保護していた楯に対し、取っ手を内側にもったやや小型の金属の楯が普及し始め、身体を保護するためには胸当てや腰当てを必要とするようになったことである。そして投げ槍に代わって長い槍が使われるようになった。・・・商工業の発展が武器の値を今までより安価にし、それをすみやかに普及させたことが想像される。・・・長槍を攻撃武器とし、楯を防御武器にし、密集隊をなして整然と行動し、集団の圧力によって敵を打ち破る重装歩兵の密集隊の戦術となる。駿馬にまたがった貴族もこの集団にはたじろがざるをえない。この新戦術が、恐らくスパルタで完成され、他のポリスに普及していったとき、国防の主体として自ら任じた貴族の政権独占の口実はくずれ去った。<村川堅太郎『ギリシアとローマ』1961 世界の歴史2(旧版) 中央公論社 p.53-54 による>

市民戦士 重装歩兵と三段櫂船漕手

 アテネの男性市民の家には必ず武具があった。武具の一つ大きな丸い盾をホプロンといい、市民戦士を重装歩兵(ホプリテス)と呼ぶのはこの盾からきている。重装歩兵として、アテネの男性は3万を超すアテネ軍の一員となり、またこの重装歩兵が平服を着ればアテネの民会に早変わりするというわけで、民主政を倒すにはこの軍隊を撃破しなくてはならないのである。
(引用)17歳から59歳まで、足腰の立つアテネ男性はみな兵役についている。しかし、全員が武具を用意できるわけではないから、用意できる男性は得々としてそれを見せびらかす。武具は市民団中上層2階級、すなわちヒッペイス(貴族)とゼウギタイ(一定以上の穀物を収穫できる層)に属するしるしなのだ。武具を用意できない層をテテスと呼ぶ。テテスのなかには槍と盾だけは持っていて、ペルタスタイと呼ばれる軽装部隊に属して戦う者もいる。しかしアテネの民主政には、兵役につく気のある者はみな参加する権利があるし、武器をなにひとつ用意できない者は出征するさいには座布団を1枚持っていく。三段櫂船の漕手座に敷くためだ。軍事大国としてのアテネの基礎は海軍力にあり、漕手は奴隷ではなく自由民だから、かれらは自分の役割に誇りを持っている。漕手やその役割を見下すようなことをすれば、1日に12時間も櫂を漕ぐ者のこぶしはばかにできないとすぐに思い知らされることになる。<F.マティザック/安原和見訳『古代アテネ旅行ガイド』2019 ちくま学芸文庫 p.15-187>