重装歩兵(ポプリーテス)・密集部隊(ファランクス)
古代ギリシアの平民が武装した兵力(ポプリテス)。密集部隊(ファランクス)を編成し、ペルシア戦争などでギリシアの強力な戦力となった。重装歩兵としての市民戦士はポリス民主政の中核となった。
古代ギリシア・ポリスの兵制
青銅製の重装歩兵像
(前500年頃)
『ギリシャ・ローマの戦争』p.110
重装歩兵革命
このような騎兵を主力とした乱戦スタイルの戦闘から、重装歩兵による組織的戦闘への変化という戦術上の変化を重装歩兵革命といい、それによって平民の成長を背景にしてポリス民主政が成立したと考えられている。ギリシアの壷絵には、有名な「キージの壷」(教科書・山川『詳説世界史』p.35に写真がある)に描かれたような重装歩兵の戦闘場面を見ることができる。<ハリー・サイドボトム『ギリシャ・ローマの戦争』2006 1冊でわかるシリーズ 岩波書店 p.51>重装歩兵の密集部隊(ファランクス)戦術
キージの壺絵に描かれた重装歩兵密集部隊。
『ギリシャ・ローマの戦争』p.51"
Episode 戦闘方法を変えた楯の変化
前7世紀の初めごろ、ギリシア人の武器の上に一見小さいが重要な変化が生まれた。それは在来肩から吊られて全身を保護していた楯に対し、取っ手を内側にもったやや小型の金属の楯が普及し始め、身体を保護するためには胸当てや腰当てを必要とするようになったことである。そして投げ槍に代わって長い槍が使われるようになった。・・・商工業の発展が武器の値を今までより安価にし、それをすみやかに普及させたことが想像される。・・・長槍を攻撃武器とし、楯を防御武器にし、密集隊をなして整然と行動し、集団の圧力によって敵を打ち破る重装歩兵の密集隊の戦術となる。駿馬にまたがった貴族もこの集団にはたじろがざるをえない。この新戦術が、恐らくスパルタで完成され、他のポリスに普及していったとき、国防の主体として自ら任じた貴族の政権独占の口実はくずれ去った。<村川堅太郎『ギリシアとローマ』1961 世界の歴史2(旧版) 中央公論社 p.53-54 による>市民戦士 重装歩兵と三段櫂船漕手
アテネの男性市民の家には必ず武具があった。武具の一つ大きな丸い盾をホプロンといい、市民戦士を重装歩兵(ホプリテス)と呼ぶのはこの盾からきている。重装歩兵として、アテネの男性は3万を超すアテネ軍の一員となり、またこの重装歩兵が平服を着ればアテネの民会に早変わりするというわけで、民主政を倒すにはこの軍隊を撃破しなくてはならないのである。(引用)17歳から59歳まで、足腰の立つアテネ男性はみな兵役についている。しかし、全員が武具を用意できるわけではないから、用意できる男性は得々としてそれを見せびらかす。武具は市民団中上層2階級、すなわちヒッペイス(貴族)とゼウギタイ(一定以上の穀物を収穫できる層)に属するしるしなのだ。武具を用意できない層をテテスと呼ぶ。テテスのなかには槍と盾だけは持っていて、ペルタスタイと呼ばれる軽装部隊に属して戦う者もいる。しかしアテネの民主政には、兵役につく気のある者はみな参加する権利があるし、武器をなにひとつ用意できない者は出征するさいには座布団を1枚持っていく。三段櫂船の漕手座に敷くためだ。軍事大国としてのアテネの基礎は海軍力にあり、漕手は奴隷ではなく自由民だから、かれらは自分の役割に誇りを持っている。漕手やその役割を見下すようなことをすれば、1日に12時間も櫂を漕ぐ者のこぶしはばかにできないとすぐに思い知らされることになる。<F.マティザック/安原和見訳『古代アテネ旅行ガイド』2019 ちくま学芸文庫 p.15-187>