キュロン
古代ギリシアのアテネの貴族。前632年に僭主となることを狙って反乱を起こしたが平民に阻止され失敗した。
古代ギリシアの代表的なポリスであるアテネにでは、王政に代わって貴族による寡頭支配である貴族政に移行していたが、前7世紀半ば頃から貨幣経済が進展し、力をつけた平民が重装歩兵としてポリスの防衛にあたるようになっていった。平民の国政参加の要求が強まると、貴族には危機感が強まり、非合法な手段によってでも強力な独裁を行おうという動きが出てきた。
キュロンの反乱
前632年、メガラの僭主テアゲネスの女婿にあたるアテネ貴族キュロンは、一味の者たちと共にアクロポリスに立てこもるという事件がおこった。当時の詳細を伝える資料がないので判らないが、クーデターによって政権を奪取し僭主政を打ち立てようとしたものと思われる。しかし、伝承によると、アッティカ(アテネとその周辺地域)各地の農民たちが報せを聞いてアクロポリス周辺に詰めかけ、キュロン一党を包囲しこれを降伏させたという。<伊藤貞夫『古代ギリシアの歴史 ポリスの興隆と衰退』2004 講談社学術文庫 p.164-165>僭主政、失敗
この事件は、ポリス社会において、貴族と平民の対立が続く中、独裁政権によって事態を乗り切ろうとして失敗したものと考えられるが、平民はその動きを抑えたものの貴族政の維持を支持したと言うことであろう。アテネにおいてはその後、ドラコンの立法とソロンの改革によって平民の権利保障が進んだ上で、約100年後の前6世紀中頃にペイシストラトスが権力を握り、僭主政が現実となる。 → 前6世紀末にアテネ民主政が確立。