貨幣(オリエント・ギリシア・ローマ・イスラーム)
貨幣は地中海世界においては、前7~6世紀に小アジアのリディアで始まり、ペルシア帝国・ギリシアに広がり、特に都市国家アテネでは特に貨幣経済が発展した。貨幣はローマ帝国に継承され、皇帝の代ごとに多数が鋳造された。ササン朝を征服したイスラーム帝国も貨幣を鋳造し、広い交易圏で使用された。
貨幣の使用の始まり
金属の地金を一定の重量で整形して、特定の図柄を刻印して通貨とした、いわゆる「コイン」を世界で最初に造ったのは小アジア(現トルコ)のリディア王国であった。リディア王ギュゲスは、前670年に純度・重さを一定にした金73%、銀27%の合金「エレクトラム」でコインを造り、ライオンの頭部を刻印した。当時のリディアではこうした天然の合金が豊富に採掘されていた。この最初のコインは現在で言えば勲章のようなものと推測されている。その後、前550年ごろにリディア王クロイソスにより約8.4グラムの「金貨」が造られた。その製法は間もなくギリシア、さらにはローマ帝国に伝播した。<宮崎正勝『モノの世界史』2002 原書房 p.66> → リディア王国クロイソス王の金貨
金・銀・銅 素材のメリット 金・銀・銅が貨幣の素材とされたのは、次のようなメリットがあるためと考えられる。
- 金銀銅いずれも焼失しにくい。腐食に強く、貯蔵に適している。
- 加工(打刻や打延)が容易。
- 貨幣以外の実用性が低い(鉄にくらべ)。
- 希少価値がある
アケメネス朝ペルシアの貨幣
前546年にリディアを亡ぼし、小アジアを支配下に収めたアケメネス朝ペルシアは、まもなくオリエント全域に世界帝国を建設、ダレイオス1世はリディアの金貨を手本に、ダリックという金貨を発行した。この金貨は旧リディアを含む帝国西部で流通するにとどまっていたが、ペルシア帝国の歴代大王も次々と貨幣を鋳造し、整備された王の道などのインフラを利用して広く流通するようになった。ギリシアの貨幣
東地中海地域で貨幣が用いられ始めたのは、前7世紀の小アジア西岸に栄えたリディア王国であったが、それに隣接するイオニア地方のギリシア都市に広がり、さらに前6世紀前半にはギリシア本土でも使われるようになった。コリントスなどの遺跡で金属貨幣が出土している。ポリスの中ではアテネは経済的に最も発展し、ラウレイオン銀山を所有して銀貨(基本単位をドラクマという)を発行した。一方スパルタは鎖国政策をとり、貨幣経済の浸透を押さえるために外国の金・銀貨幣の輸入を禁止し、国内では鉄貨だけを流通させた。このように貨幣はポリスごとに発行されたので、両替商(トラペザ)が出現し、やがて銀行に発展する。両替商や銀行家は富裕な市民としてポリスの経済を支える存在となった。またアテネの民主政全盛期には公職者の俸給だけでなく、民会日当、民衆裁判所の陪審員手当、演劇の観劇手当などが貨幣で支給された。<前沢伸行『ポリス社会に生きる』1998 世界史リブレット 山川出版社 p.7~ などによる>
計数貨幣 金属貨幣は、はじめは秤(はかり)でその都度重さを量る「秤量貨幣」であり、重量によって価値が増減した。ギリシアではじめて計数貨幣、つまり貴金属の含有量にかかわらず一枚に一定の価値を定めで留数させた。重さでなく枚数で価値が計られるようになった。ギリシアで計数貨幣が始まった理由は、はっきりしたことは分からない。商業の発展が関係することも十分考えられるが、現在の研究では商業的な理由よりも社会の発展にともなう国家の役割の多様性があげられるようになっている。
アテネの銀貨
Silver Drachma of Athens at the Numismatics Museum / Wikimedia Commons
ローマの貨幣
地中海世界への流通
地中海世界の東方では、アテネの通貨ドラクマが流通していたが、前3世紀末にはローマで発行されたデナリウス銀貨が、それにかわる国際通貨として広く用いられるようになった。イタリアの各都市も、当初は独自の通貨を鋳造していたが、このローマの貨幣が広がっていったのは、イタリア半島統一戦争とポエニ戦争・マケドニア戦争によってローマの支配が地中海世界全域に及んだためであった。ラテン語とデナリウス銀貨の広がりは、ローマによる地中海世界支配(世界帝国)の成立を意味していた。征服戦争と属州の拡大によって得られた富(資本)は、デナリウス銀貨を基軸とした貨幣に姿をかえ、土地や奴隷の購入に充てられ、大土地所有制を形成していった。ローマ帝国の段階になると、その国家権力の象徴として皇帝の肖像を刻印した貨幣が、代々の皇帝によって鋳造され、帝国領内に流通させた。ローマのデナリウス銀貨は、その後およそ300年間にわたり、地中海世界の「国際通貨」として用いられ、貿易でも取引の対価としての価値が認められた。そのれは、ローマ帝国が発行した通貨が、西アジアからインドにかけての遺跡、さらに遠くベトナムのオケオ遺跡などで発見されることで分かる。また、インドのクシャーナ朝のカニシカ王が発行した金貨をディナーラというのもローマの銀貨ディナリウスから来ていると考えられる。
ローマの貨幣制度
- 基本通貨 デナリウス銀貨。ローマでは金が産出しなかったので、基本通貨は銀貨でデナリウスといわれた(複数形がデナリ)。他に、物価の基準単位としてセステルティウス(真鍮貨。HSと略す。1デナリウスは4HS。2.5アスにあたる)、少額貨幣としてトゥボンディウス(真鍮貨。2アスにあたる)アス(小さな青銅貨)があった。
およその価値は兵士の給与が年額450デナリ、高級地域の一軒家が50万デナリ、中級ワイン一本が1セステルティウス、穀物は5デナリで約10日分のパンになる分が買えた。<『ローマ旅行ガイド』p.127>)
「デナリウス」の語が残る 西ローマ帝国が滅亡して帝国が貨幣を鋳造することは無くなったが、デナリウスという貨幣単位は、中世ヨーロッパやイスラーム世界でも使用された(ディナール金貨)。今日でもこれに由来するディーナールなる単位を用いる国々がある。<『地中海事典』p.51>
デナリウス貨がいかにひろく流通したかは、今のイギリスのペニーがデナリウスの頭文字「d」であらわされることや、旧ユーゴスラヴィアにディナルという貨幣の呼称が残っていたことからもあきらかである。<『ギリシア・ローマの盛衰』p.267> - 造幣三人委員会 共和政時代からローマで貨幣の鋳造に当たる官職として造幣三人委員会があった。民会で選出される公職の最低ランクで、キャリアの最初に就く地位だった。共和政時代には造幣委員が自分の先祖の事績を貨幣の図柄にすることもあった。内乱の1世紀の時期にはポンペイウスやカエサルなど有力者の肖像の図柄が現れた。<『貨幣が語るローマ帝国の歴史』p.23>
「マネー」の語源 英語で貨幣を money というのは、ローマの貨幣鋳造所が、古代ローマのカピトゥリウムの丘にあった女神ユノの神殿に置かれていたので、その別名であるラテン語モネータに由来するとされている。<『世界史を読む事典』p.623> - アウグストゥスの貨幣 初代皇帝アウグストゥスの貨幣にはSPQR IMP CAESARI AVG COS XI TR POT VI と文字が記されている。SPQRは「元老院と市民のローマ」の意味のローマの国章、IMPはインペラトル(勝利を収めた将軍に贈られる称号)、CAESARIはカエサル家の後継者であること(最後のIで「カエサルに」の意味となる)、AVGがアウグストゥス(尊厳あるものの意味)の略称、COS XIはコンスルに11回就任、TR POT Vは護民官に5回就任を意味する。この貨幣の刻印にはアウグストゥスが共和政の原理の上で皇帝とされたことがよく現れている。<『貨幣が語るローマ帝国の歴史』p.82>
- アウグストゥス以降の貨幣 ローマ帝国の貨幣制度の中心は従来と同じデナリウス銀貨であったが、アウレウス金貨(デナリウスはその25分の1)とクィナリウス銀貨(デナリウスの2分の1、臨時発行)が鋳造された。ティベリウスの時代には4分の1デナリウスの大きなセルスティウス真鍮貨が鋳造され、トラヤヌスの時代に2分の1セルスティウスの1ドゥポンディウス真鍮貨が鋳造された。その他、小さい銅貨の2分の1アスのセミス、4分の1アスのクァドランスも造られたが、やがてインフレの上昇に対応できず、2世紀の前半以降は鋳造されなかった。<『図説ローマ帝国』p.38>
- 3世紀の「通貨危機」 すでにマルクス=アウレリウス=アントニヌスの時代に対ゲルマン人戦争と対パルティア戦争の両面での戦争はローマの軍事費支出を増大させ、国家財政を圧迫していた。そのため3世紀に入ると、カラカラ帝は増税策をとらざるを得なくなった。その税収を増やす策の一つが、帝国内のすべての自由民に市民権を付与するアントニヌス勅令であった。この増税による財政規模の拡大と膨張する軍事費によってインフレ圧力が高まると、皇帝は貨幣改鋳に踏み切った。それは劣悪な品質の貨幣を鋳造して流通されることで、この犯罪的ともいえる増収策でインフレを更に悪化させた。
(引用)たとえば銀貨の場合、アウグストゥス時代には95%をこえる銀含有率が、軍人皇帝時代の3世紀中頃には3%以下となり、260年には銀メッキを施した青銅貨のアントニニアヌス「銀貨」さえ登場します。このすさまじい品質劣化は、たとえば一枚の旧銀貨を溶かして純度を下げ、二枚の銀貨を新たに鋳造するといった増収策によるものであり、皇帝がかわるたびに同様のことが行われました。その結果、短期間に何十倍というインフレが起こり、ローマの経済を疲弊させたのです。<青柳正規『ローマ帝国』p.180-181>
- コンスタンティヌスの金貨発行 ディオクレティアヌスは良質の銀貨鋳造を再開するなど、通貨改革を図り、混乱を収束させようとした。政治的混乱を克服したコンスタンティヌス大帝は、キリスト教の公認に踏み切って帝国の新たな統治理念とするともに、租税収入の安定を図ってうち出したのが「コロヌスの土地緊縛令」によって奴隷制大農園(ラティフンディウム)にかわる生産方式を創出することであり、地中海交易を活発にするために打ち出したのが、基軸通貨としてソリドゥス金貨を鋳造発行することであった。
- ビザンツ帝国のノミスマ ソリドゥス金貨は、金に対する人々の執着心によって、デナリウス銀貨に替わり、地中海世界の国際基軸通貨となっり、ローマ帝国の東西分裂以後、西ローマ帝国に代わったゲルマン系国家でも用いられたが、次第に消滅した。一方、ソリドゥス金貨はコンスタンティノープルを都としたビザンツ帝国でも継承された。ビザンツ帝国では、金貨はソリドゥスのギリシア語に当たるノミスマといわれ、重量約4.54gに定められた。1092年のアレクオス1世の改鋳では金含有率は85.4%であった。
ドル記号 $ の起源 ソリドゥス金貨はその後もたび重なる改訂でもその正味重量・品位は維持され、1000年近く地中海の国際交易にあって高い通用力を誇った。ソリドゥス solidus 金貨はドルの記号$にも表現されている。<『地中海事典』p.51>
イスラームの貨幣経済
ウマイヤ朝の貨幣政策
アラブによる西アジアの統一後、しばらくはイラン、イラクなど東部地域ではササン朝ペルシアのディルハム銀貨が使用され、エジプトやシリアではビザンツ帝国のディーナール金貨が使われていた。しかし「イスラームの平和(パックス=イスラミカ)」が実現し、東西地域の商品流通が活発になると、統一的な通貨が必要となった。695年ウマイヤ朝のアブド=アルマリクはダマスクスでアラブ式貨幣としてディーナール金貨とディルハム銀貨を新たに鋳造し、それを全国で流通さえることを決定し金・銀の二本位制とした。金貨と銀貨のそれぞれには、表にコーランの文句(「言え、彼はアッラーフ、唯一なるお方である」)が刻まれ、裏にカリフの名が刻まれた。ウマイヤ朝によるアラブ貨幣の発行によって経済は一段と発展し、官僚や軍隊への俸給(アター)の支払いも現金で行われた。8~9世紀にこのような貨幣経済が成立していたことは、中国とヨーロッパに比較してもかなり早い時期であり、イスラーム文明の特徴と言える。<佐藤次高『イスラーム世界の興隆』世界の歴史8 中央公論社 1997 p.107~などによる>