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ドラコン/ドラコンの立法

古代ギリシアのアテネで前621年に立法家ドラコンが掟を定めたこと。慣習法を初めて成文化したことによって、貴族の支配に対する平民の権利を守ることとなった。

はじめて成文法を制定

 ドラコンはアテネでの貴族と民衆の抗争が激しくなってきた前621年、立法家に任じられ、それまでの慣習法を、成文化することを委託され、その仕事をやり遂げた。これは、貴族の恣意的な法解釈の幅を制限することによって、平民の利益を前進させるものであり、アテネを貴族政から市民による民主政へと移行させる上で重要なできごとであった。
 ドラコンの立法は、アリストテレスの『政治学』やプルタルコスの『英雄伝』に伝えられていたが、1891年イギリスのケニヨンが大英博物館のパピルス文書からアリストテレスが書いた(およびその弟子が加筆した)と思われる『アテナイ人の国制』を発見し、ドラコンの改革の内容が詳細に判った。その中に、「参政権は武装を自弁できる人々に与えられた」とあり、そのような市民がアルコンなどの役職を選出した事が知られる。<太田秀通『スパルタとアテネ』1970 岩波新書 p.114~116 による>
 ドラコンの立法は「血で書かれた法律」といわれたほどで、その中の刑法は、小さな罪でも死刑にするという大変厳しい内容であったため、ソロンの改革のときに殺人罪の規定以外は廃止された。

資料 アリストテレス『アテナイ人の国制』

 アリストテレスの『アテナイ人の国制』では、ドラコンが「掟」として定めた制度は次のような内容だったとしている。なお、その年は、村川堅太郎氏の註では、従来は前621年であるとされているが前624/3年のこととしている。
(引用)参政権は自費で武装し得る人々に与えられていた。彼らは九人のアルコンと財務官とを十ムナ(銀の重量で436g)を下らない、負債のない財産をもつ人たちから選び、その他の余り重くない役は自費で武装し得る人たちから選び、将軍と騎兵長官とは百ムナを下らない、負債のない財産と正妻から生まれた十歳以上の子供とを示し得る人たちから選んだ。(中略)また参政権のある者の間から抽籤で選ばれた四百一人が評議する定めであった。評議員その他の役には三十歳以上の人々の間で抽籤を行い、すべての人々が一巡するまでは再任を許さない。一巡すると再び最初から抽籤する。(中略)アレイオ・パゴス(アクロポリスの西にあった会議場)の会議は法律の擁護者で役人が法に従い治めるように監視していた。不法な目に遭った者は、どの法が犯されているかを示してアレイオ・パゴスの会議に弾劾を提起し得た。<アリストテレス/村川堅太郎訳『アテナイ人の国制』1980 岩波文庫 p.20-21>