ソロン/ソロンの改革
ソロンは古代ギリシアのアテネで前6世紀に活躍した政治家、立法者。貴族と平民の対立を調停するため、前594年にアルコンとなって行った負債の帳消し、財産政治などを「ソロンの改革」という。その後のペイシストラトスの僭主政にも強く反対した。
調停者ソロン
ソロンは前7~6世紀にギリシアの代表的ポリス、アテネで活躍した政治家、立法者。アテネでは王政から貴族政に移行していたが、貴族の少数者支配に対して参政権を持たない市民(平民)が不満を持つようになっていた。また、貧富の差※が拡大、平民の中には身体を抵当にした借財によって奴隷にされるものも増加していた。そのようなポリス社会の矛盾が拡大するなか、前621年のドラコンの立法が行われ、慣習法が成文化されて市民の権利保護は進んだが、それでも土地は少数の貴族に握られ、貴族と平民の対立はなおも続いていた。前594/3年、40歳ぐらいであったアテネの政治家ソロンは、対立していた貴族と平民双方から支持されて、アルコンになり、全権を委ねられると、改革を行った。その改革の狙いは、貴族と平民の対立を調停することにあった。その姿勢から、「調停者」といわれることもあるが、実際には貴族や富者に対して厳しくあたり、市民生活を保護することに目指した改革であった。
また、ソロンは国政の改革に当たっただけでなく、ドラコンに続いてポリス社会の規範となる法を定めた立法者としても知られていた。その立法は厳格なことで知られていたという(細部は伝えられていない)。さらに詩人としてもその作品の一部が伝えられている。
ソロンの改革で貴族と平民の対立は一時的に調停されたが、力を付けた平民はなおも現状に不満を持ち続けた。そのような平民の不満を背景に、ペイシストラトスが独裁的な権力を握り僭主となろうとした。老人となっていたソロンは激しく抵抗したが大衆の支持を得られず、市民に警告を残して一旦アテネを離れた。彼が帰国したときには警告通り、独裁政治が行われていた。晩年は失意のうちに前560年頃、キプロスで亡くなった。なお、ソロンはギリシアの七賢人の一人に加えられている。 → タレースの項参照
※ 貧富の差 貧富の差とは収穫物の差である。かつては、貨幣が市民生活に浸透したためのひずみ、と解釈されていたが、現在ではギリシアでの貨幣の導入は前6世紀半ばとされており、前6世紀初頭のソロンの改革の時代ではない。小さな農地だけの農民は食料が不足すると、利子付きで食料を借りて飢えを凌いでいたが、返済できなくなると自分の農地の収穫物の6分の1を納めるという、小作人のような立場に陥った。このような農民はヘクテモロイ(六分の一)と呼ばれた。それでも返済できないと、身体を抵当に入れて借財していたから、奴隷に転落し、売却されるという屈辱に甘んじることとなった。<桜井万里子『ギリシアとローマ』1997 中公文庫 p.116>
ソロンの改革
「ソロンの改革」といわれる、アテネの民主政形成過程で重要な意味を持つソロンが行った国政上の改革の内容をまとめると次のようになる。- 負債の帳消し:市民が負債のために没落し債務奴隷となることを防ぐため、負債を帳消にした。これは「重荷おろし」と言われ、負債に苦しんでいた中小農民を救済するためであった。
- 債務奴隷の禁止:身体を抵当にして借財することを禁止(つまり借財のある市民を奴隷として売買することを禁止)し、さらに有力者が土地を独占することを禁止した。これによって中小農民の没落を防止した。
- 財産ごとに権利・義務を定めた:また以前からあった市民の財産による4等級それぞれに権利と義務を定めた(財産政治)。これによって一定の財産のある平民が国政に参加できるようになった。
- 民衆裁判の設置:ソロンの改革で最も重要なことで、全市民が参加し、抽選で陪審員が決められる法廷において、役人を訴えることができるようにした。この民衆裁判所はアテネの民主化の礎石となった。
- 400人評議会の設置:4部族からそれぞれ100人、合計400人の評議員から成る評議会を創設した。
資料 ソロン自身のことば
アリストテレスの『アテナイ人の国制』には、ソロンが自ら書いた詩を引用している。ソロンがどのような意図で改革にあたったか、ソロン自身の声を聞いてみよう。(引用)私は民衆に充分なる権力を与え、その名誉については何も奪いはせず、また何も加えはしなかった。権力を持ち、財産のゆえに尊ばれる人々に対してもこれに不当なる取扱いをせぬように図った。私は双方のために強き楯を執って立ち、いずれにも不当の勝利を許さなかった。(中略)その土地から私はあちこちに立てられた抵当標を引き抜き、かくて土地は以前の隷属の状態からいまや自由となった。多くの人々を私は神の造れる祖国アテナイに連れ戻した。彼らは或いは不当に、或いは正当に奴隷に売られ、或いはやむを得ぬ事情で故国を棄て、諸処に流浪したためにもはやアッティケの言葉を語り得なかった。私はまたこの土地で恥ずべき奴隷の地位に下り、主人の恣意の前に身震いする人々をも自由の身とした。私はこれらのことを力もて強制と正義とを調和せしめつつなし遂げ、約束した通りにおこなってきた。(下略)<アリストテレス/村川堅太郎訳『アテナイ人の国制』岩波文庫 p.29,30>ソロンが強い意思の力を以て農民の救済、農民の没落防止にあたったことがよく理解できる。ソロンの政治は人気取りではなかったので敵も多く、結局アテネを去ることになった。また、高齢となってアテネに帰ってからペイシストラトスの僭主になろうとした野望には激しく抵抗した。結局、僭主の出現を防ぐことはできなかったが、その後のクレイステネスやペリクレスの改革でソロンの理念は再現され、実を結ぶ。「双方のために強き楯を執って立ち、いずれにも不当の勝利を許さなかった」という言葉は現代の政治家にとって、耳の痛い言葉であるだろう。
意義と評価
ソロンの改革は、貴族と平民のいずれかの側に立つのではなく、両者の対立への「調停者」の役割を担うものであった。またその調停のねらいは、貧富の差の拡大による市民の没落を防止し、ポリス民主政を維持するところにあった。<太田秀通『スパルタとアテネ』1970 岩波新書 p.118~60 などによる>ソロンは調停者と言われたが、貴族にとっては債権の放棄を求めるものであり、もとより反対は根強かった。一方で富の再分配のさらなる徹底を求める民衆にとっては、ソロンの改革は不十分と捉えられた。そのいずれかに与(くみ)することをきらったソロンは、国法と国家機構が機能することを期待してまもなく自ら辞任し、アテネを離れた。アテネではその後、ソロンが激しく抵抗したにもかかわらず、ペイシストラトスによる僭主政といわれる独裁政治が登場し、前6世紀末のクレイステネスの改革で民主政がようやく実現する。ソロンの改革は民主政への端緒となったと評価できる。
資料 プルタルコスに見るソロンの改革
プルタルコスの英雄伝(『対比列伝』)にはソロンの人物とその改革についての評伝が載せられている。そこからいくつかの記事を拾い出してみよう。以下引用<『プルタルコス英雄伝』上 ソロン 村川堅太郎訳 ちくま学芸文庫>
- (改革の背景) 当時貧民と富者の間の不均衡はいわば絶頂に達し、市(アテネ)は全く危険状態に陥っていた。正に僭主政治が出なければ市が安定を取り戻し騒動が静まることは不可能と思われたほどだった。というのは民衆がことごとく富者から借財をしていたから。彼らはあるいは収穫物の六分の一を収める条件で耕作して「六分一」とか労働者と呼ばれ、あるいは身体を抵当に借財をしたため債権者に引き立てられることがあり得て、ある者はその場所で奴隷となり、あるものは外国に売られていた。やむなく自分の子供を売ったり――これを禁ずる法はなかったから――債権者の苛酷に耐えかねて市から逃亡する者も多かった。そこではなはだ多数の屈強な人たちが一所に集まって互いに励まし合い、これ以上傍観することなく、誰か信頼すべき人物を首領に戴いて期限が過ぎても返済できない人々を解放し、土地の再分配を行い、国制を完全に変更しようと企てた。(p.118)
- (ソロンの就任) そこでアテナイの人のうち最も思慮に富んだ人たちがソロンに眼を着けた。彼らは、ソロン独りが最も過ちが無く、また富者と不正をともにしないし、また貧者の窮境に陥ってもいないのを見て、彼に進んで公共の問題と取り組み、不和を停止してもらいたいと懇願した。・・・そして彼はフィロンプロトスの後を継ぐアルコンに、また同時に調停者と立法者の役に選ばれたが、富者たちは彼を裕福な人だとして、貧民どもは正直な人として彼を心から迎えたのであった。(p.119)
- (その政治姿勢) 彼は僭主政は拒否したが、事態の処理に穏やかに過ぎたわけではない。立法に際しては有力者たちに柔らかく譲歩したりせず、自分を選んでくれた人々の機嫌を伺うこともなかった。しかしうまく行っているところは治療も革新も行わなかったが、それは“国家を完全にかき乱してしまって、再建と最良状態への調整を行なう力を失う”のを恐れたからであった。(p.121)
- (重荷おろし) 後世の人々はアテナイ人が不愉快な物事を便利で人聞きのよい名で蔽って、上品に洒落て呼ぶと評する。たとえば娼婦を友達、貢税を醵出金、都市の駐留軍を守備軍、監獄を部屋と呼んだりするごとくである。かような工夫は負債の帳消しを重荷おろしと呼んだソロンをもって嚆矢とするらしい。これが彼の最初に実行した政策であり、現存の借財を廃棄し、今後は身体を抵当にとっての貸金を禁ずると決定した。(p.122)
- (改革に対する反応) 彼はどちらの側も満足させなかった。契約の破棄によって富者たちを悲しませたし、更に一層貧民たちの不満も買ったが、それは彼らの期待に反して彼が土地の再分配を実行せず、また、リュクルゴスのように生活において人々を絶対平等とはしなかったからであった。・・・しかし人々はやがて改革の利益に気付き、双方とも自分たち同士の非難をやめて公の犠牲に捧げたが、その犠牲を“重荷おろし”と命名した。(p.124-125)
ソロンの「重荷おろし」策
(引用)ソロンは政権を握った後、身体を抵当に取って金を貸すことを禁止して民衆を現在のみならず将来も自由であるようにし、またいろいろの法律を定め公私の負債の切り捨てを行ったが人々は重荷を振り落としたという意味でこれらを重荷おろしと呼んでいる。<アリストテレス/村川堅太郎訳『アテナイ人の国制』岩波文庫 p.22>この記事の後にアリストテレスは、ソロンに対する誹謗があったことも記している。貴族の一部にはソロンの「重荷おろし」の企てを知り、実施される前に借金をして土地を買い込み、まもなく負債の切り捨てが行われた結果、富裕になる者がいた。誹謗する人々はソロンもその計画に関与していたという。しかし、アリストテレスは、ソロンは「他人を抑えて国家の独裁者となることもできたのに、たとい双方の側から憎まれても自己の利益よりも美徳と国家の安全を重んじたほとに節制であり公平であった彼が、かかる些細な、かつ見えすいたことをして自己を汚したことはありえそうにもない」と見ている。<アリストテレス『同上書』 p.23>
Episode 万人の気に入るのは難しい
ソロンは立法権も付与されたので、殺人罪を除いてドラコンの立法をすべて廃止し、つぎつぎと新しい法律を作った。それが財産政治の制度であり、裁判への市民の参加(陪審員制)などであった。その他、ソロンの立法は遺言の規定、女性の服装、公共の井戸の使用法、暦の制定など、生活の全般にわたっていたため、沢山の人がソロンに言いがかりをつけにやってきた。辟易したソロンは“大きな事業において万人の気に入るのは難しい”という言葉を残し、海外に旅立ち、その間に市民たちが彼の法律に慣れることを期待した。しかし、その後のアテネでは人々はふたたび党争を始め、平野党(寡頭政を主張し貴族が支持)・海岸党(中庸の混合政体を主張)・山岳党(民主政を主張し平民が支持)の三派が争うようになった。ペイシストラトスの僭主政に抵抗
年老いたソロンがアテネに戻った時には山岳党の支持を受けたペイシストラトスが台頭していた。ペイシストラトスが自らの手で身体を傷つけたのち馬車で運ばれてアゴラに現れ、民衆を扇動して僭主になろうとしたとき、ただひとりその前に立ちふさがってそれを非難した。ペイシストラトスが権力を握ってからも、「ソロンはすでに大変な高齢で支持者もなかったが、それでも広場(アゴラ)に赴いて市民たちに向かって語り、彼らの無思慮と柔弱とを非難するとともに、自由を放棄せぬようにと鼓舞し激励した。このとき人々の記憶するあの有名な言葉を述べた。すなわち少し前に僭主政の樹立されるのを防ぐのは容易だったが、今では既に確立し成長しているのだから、これを打倒し撲滅するのは一層偉大で輝かしい仕事である、と説いたのである。」友人たちは亡命を勧めたが、それに従わず、詩作でアテナイ人を非難し続けた。<『プルタルコス英雄伝』上 ソロン 村川堅太郎訳 ちくま学芸文庫 p.144-145>参考 ソロンの警告
民衆はソロンを尊敬し、彼が独裁者として支配してもよろこんでこれを受け入れようとした。しかし彼は独裁者となることを拒んだ。そして、縁者のペイシストラトスの野望を見抜くや、全力をあげてこれを阻止した。(引用)彼は槍と楯をたずさえて急ぎ民会に乗り込み、ペイシストラトスの企図を人びとに警告した。そしてたんに警告しただけでなく、次のように言って、民衆を助ける用意があることも告げた。「アテナイ人諸君、わたしはあなた方のなかのある人たちよりは賢いし、ある人たちよりも勇気がある。つまり、ペイシストラトスの詭計を見破れないでいる人たちよりは賢いし、またそれを知りながらも、恐怖心のために沈黙している人たちよりは勇気があるのだ」と。すでにペイシストラトスの側に立っていた政務審議会の議員たちは、彼は気が狂っているのだと言った。そこで彼はこう言い返した。古代ギリシアにも独裁政治に抵抗して民主政治を守ろうとした人がいた。ソロンの抵抗はこの時は効を奏しなかったが、この抵抗があったから、アテネの人びとは次の段階での僭主の出現を防止する知恵を出し、民主政治を確固たるものにできたのだろう。20世紀においてさえ、ヒトラーやスターリン、その他もろもろの独裁政治が行われたことを考えるとき、ソロンの警告と勇気には感心させられる。
少しの時がたてば、町の人たちには分かってもらえるだろう。わたしが狂っているいるかどうかは。 真理がみんなの真ん中へ現れてくるそのときには。
また、彼が予言したペイシストラトスの独裁制に関するエレゲイア調の詩は、次のようなものであった。
雲から雪や霰(あられ)はもたらされ、光る稲妻から雷鳴は生じる。
そのごとくに、強力な男たちによって国家は滅び、民衆は知らぬ間に独裁者に隷属することになるのだ。
しかし、その説得は効を奏しないで、ペイシストラトスの支配がすでに確立してしまうと、ソロンは将軍たちの詰所の前に彼の武器をおいて、「祖国よ、わたしはお前を言葉と行為の両方で守ってやったのに」と言った。(その後ソロンは、エジプト、キプロス、リディアに旅立った。)<ラエルティウス/加来彰俊訳『ギリシア哲学者列伝』上 岩波文庫 p.48-49>