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デロス同盟

アテネを盟主としてエーゲ海域の諸ポリスで結成された対ペルシアの攻守同盟。ペルシア戦争でのペルシア軍の来寇に備え、前478年に結成され、同盟本部はデロス島に置かれたが、次第にアテネの支配力が強まり、「アテネ帝国」といわれるほどになり、前431年のスパルタを盟主とするペロポネソス同盟との間のペロポネソス戦争が起こった。

アテネを盟主とする都市同盟

デロス島

デロス島の位置

 エーゲ海周辺のギリシア諸ポリス(都市国家)が、ペルシア帝国軍の来襲にそなえて、アテネを盟主として結んだ同盟。前478年に結成された軍事同盟で、最大時200のポリスが参加した。各ポリスが一定の兵船を出して連合艦隊を編成し、それのできないポリスは一定の納入金(フォロイ)を同盟の共同金庫に入れることにした。実際に艦隊を提供したのはアテネだけで、他のポリスは納入金を納めるだけだった。共同金庫は共通の信仰の対象であったアポロン神殿のあるデロス島におかれ、同盟の会議もそこで開催された。

アテネによる支配の強化

 デロス同盟の納入金(フォロイ)の管理は十人のアテネ市民に委ねられたので、同盟の執行権ははじめからアテネが握っていた。前454年には、金庫がデロス島からアテネに移され、さらに前449年にペルシア帝国とのカリアスの和約が成立してペルシア戦争が正式に終結したにもかかわらず、ペリクレスはデロス同盟を強引に継続させた。こうして、アテネはデロス同盟を通じて「アテネ帝国」と言われる支配権をふるうようになった。
 一方、ペロポネソス半島内の諸ポリスは、スパルタを盟主とするペロポネソス同盟をすでに前6世紀に結成しており、次第に両同盟の対立が深刻になり、前431年にペロポネソス戦争が勃発する。

デロス同盟の結成と「帝国」化

 前478年、ギリシア連合海軍はスパルタのパウサニアスに指揮され、キプロス、ビザンティオンをペルシア帝国から奪回したが、パウサニアスは指揮権乱用の不評をかい、本国スパルタに召喚されてしまった。ペルシア帝国海軍の再侵攻が考えられたため、エーゲ海域の諸ポリスはアテネに連合艦隊の指揮を執るよう要請したことから、アテネを中心とする対ペルシア攻守同盟であるデロス同盟が結成されることとなった。
(引用)同盟の本部と金庫はデロス島に置かれ、そこで開かれる同盟会議で参加諸国はアテナイを含め平等に一票の投票権を行使するとされた。しかし、軍船を提供する国と拠出金を提供する国の決定、拠出金の額の決定はアテナイがおこない、財務を担当するヘレノタミアイ10名もアテナイ人の中から選出されたから、当初からそれはアテナイ主導の同盟であった。同盟は、小アジアの西岸、ヘレスポントス(現ダーダネルス海峡)とプロポンティウス(現マルマラ海)の沿岸のポリス、エーゲ海上の多くの島々など、150以上の国々が参加して、始まった。・・・
 デロス同盟への参加国も増加しつづけた。参加国が支払う拠出金を納めた同盟金庫は前454年に、デロス島からアテナイのアクロポリスへと移管された。以後、同盟諸国の毎年の拠出金はアテナイ繁栄の資金源の一部になった。
 前449年にはアテナイとペルシアの間に和平が締結されたから、デロス同盟は本来の趣旨からいえば役目を終えたことになる。しかし、アテナイは同盟を維持し、同盟からの脱退を希望する国に対しては武力でこれを抑圧した。・・・
 同盟国に対するアテナイの支配は、各国の司法権を一部制限したり、アテナイ市民を海外駐在役人として派遣したり、パンアテナイア大祭や大ディオニュシオス祭に奉納品をもって参加するよう要求したり、と強化される一方であった。このようにして確立したアテナイの支配権は、トゥキュディデスが「アルケー」と呼ぶものだが、現在はアテナイ「帝国」と呼ぶことが多い。<桜井万里子『ギリシアとローマ』1997 世界の歴史5 中央公論社 p.141-152>
 これらのデロス同盟の「アテネ帝国化」を進めたのはペリクレスであったが、同時期にペリクレスはパルテノンの建設や市民権法の制定など、アテネ民主政の完成に向けての諸改革を実行していた。このようにペリクレスのもとで民主政改革と帝国主義的政策が同時に展開されたことを押さえておこう。