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アンティゴノス朝マケドニア

ヘレニズム諸国の一つでギリシアと小アジアを支配した国。アレクサンドロス大王の後継者(ディアドコイ)の一人、アンティゴノスの子が、前276年に建国、ヘレニズム国家として存続したが、前168年にローマに敗れ滅亡した。

 アレクサンドロス大王の部将(ディアドコイ)の一人アンティゴノス1世はギリシア本土と小アジアを勢力圏としており、帝国の回復を図ったが、前301年イプソスの戦いで他のディアドコイたちの連合軍に敗れて敗死した。その子デメトリオスも帝国再建を図ったが果たせず自殺した。その子のアンティゴノス2世(つまり1世の孫)がマケドニアのカッサンドロスの死後、前276年にアンティゴノス朝マケドニアを成立させた。(アンティゴノス朝の成立を前306年とする説もある。)

アンティゴノス1世

 アンティゴノス(前382-前301)は、マケドニアのフィリッポス2世と同年に生まれで、マケドニアの興隆をささえた古参の部将の一人であり、隻眼といわれた。アレクサンドロスの東方遠征にも最初から参加し、イッソスの戦い後の小アジアの統治を任された。アレクサンドロスが没すると、摂政ペルディッカスと対立し、ディアドコイの一人として戦端を開いた。前321年のディアドコイ間の話し合いであるトリパラディソスの会議では全マケドニア軍の指揮官として認められたが、反発したディアドコイとの激しい戦争(ディアドコイ戦争)を20年にわたって展開した。その間、前306年にプトレマイオスの海軍に大勝し、その時、息子のデメトリオスとともにマケドニア王位を宣言した。これをアンティゴノス朝マケドニアの始まりとする説もある。
イプソスの戦い しかし、アンティゴノスとデメトリオスが、前301年のイプソスの戦いセレウコス・リュシマコス連合軍に敗れたことによって、彼の王国は5年で瓦解した。このデメトリオスも後に自殺し、孫のアンティゴノス2世が前276年に王位につき、一般にそれ以降をアンティゴノス朝マケドニアと言っている。<森谷公俊『アレクサンドロスの征服と神話』興亡の世界史1 2016 講談社学術文庫 p.383 など>

アンティゴノス2世の建国

 初代アンティゴノスの王国は、実質的には前321年に成立し、前306年にアンティゴノスとデメトリオスの親子が王を称したものの、前301年に滅びた。この段階はその支配の中心は小アジアにあった。それに対して、前276年に孫のアンティゴノス2世が建てた王国は、かつてのマケドニア王国のヨーロッパ側の支配地を継承していた。そこで、この年を厳密な意味でアンティゴノス朝マケドニアの成立の年としており、またこれによってディアドコイ戦争が終結したと言うことができる。

ヘレニズム国家

 アンティゴノス朝マケドニアはヘレニズム三国の一つであるが、他のセレウコス朝のシリア、プトレマイオス朝のエジプトの二国と違い、オリエント風の専制国家ではなく、ギリシア的な市民を中核とした重装歩兵を軍事力の主力とする国家体制を維持していた。
マケドニア戦争 その兵力によって、西方のイタリア半島に勃興したローマとの間で、前後3回にわたる戦争(マケドニア戦争)を戦ったが、前168年ピュドナの戦いに敗れて滅亡、その地は前148年にローマの属州となる。
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