プロタゴラス
ソフィストを代表する哲学者。「人間は万物の尺度である」という言葉でよく知られている。
プロタゴラス(前500年頃~前430年頃)は、代表的なソフィスト。ギリシアの北方、トラキアのアブデラ出身で、はじめて自ら「ソフィスト」(知恵ある人の意味)と名のったという。彼の著作は伝わっていないが、「人間は万物の尺度である」という成句で有名である。彼の著作の断片にあるのは、「万物の尺度は人間である。あるものについてはあるということの、あらぬものについてはあらぬということの」と言う文であり、つまり存在か非存在かは、それぞれの主観によって違ってくるのであり、絶対的、普遍的な真理は存在しないという、相対主義的な考え方、あるいは人間中心主義ということもできる。
ソクラテスは、プロタゴラスが金銭を受け取って「徳」について教えていることを厳しく批判している。ソクラテスは「神を敬わず、若者を惑わしている」として訴えられたが、プロタゴラスも「神の存在は知ることができない」という立場をとったので、アテネから追放されている。
ソクラテスは、プロタゴラスが金銭を受け取って「徳」について教えていることを厳しく批判している。ソクラテスは「神を敬わず、若者を惑わしている」として訴えられたが、プロタゴラスも「神の存在は知ることができない」という立場をとったので、アテネから追放されている。
ソフィストとは
ソフィストの項を参照してほしいが、次のような説明も分かりやすい。(引用)ソフィストたちはポリスからポリスへと渡り歩き、自分たちの弁論の才を披露して富裕な過程の才能ある若者たちから生徒を募ったが、その際彼らは、自分の下で学ぶ若者を有能な市民、完全な人間、徳ある人にしよう、と約束して勧誘した。つまり、三年から四年、高額の授業料を支払って討論と演説の技術を学ぶならば、必ず政治的な成功が待っているであろう、というのが彼らの謳い文句であった。この背景にあったのは、直接民主制の下の公的生活において権力を握るのは、自分の言葉によって自分の意見を通すことができる人間である、という事情である。しかし、世間は一般的にソフィストたちのことを、若者を騙し惑わす人間であると考えていた。なぜならソフィストたちの活動は、徳と人間性を教育すると称しながら、実際はただ若者の政治的野心に奉仕し、若者を真理や善を省みない相対主義的な生き方に導いているにすぎないとみなされていたからである。<リーゼンフーバー『西洋古代・中世哲学史』2000 平凡社ライブラリー p.57>
プラトンの『プロタゴラス』
プラトンの著作『プロタゴラス――ソフィストたち』では、アテネでソフィストとして名声を高めていたプロタゴラスをソクラテスが訪問し、二人がスリリングな会話を交わす場面が描かれている。これを読むと、プラトンがソクラテスの口を通じてプロタゴラスとソフィストをどのように批判しているか、よく分かる。ソクラテスはプロタゴラスに向かってこういっている。(引用)あなたという方は、ほかのある人々のように、自分自身がひとかどの立派な人物であると任じているだけではないのですからね。ほかの人々は、本人自身は立派な人物ではあっても、自分以外の人々をすぐれた者にすることができません。これに反してあなたは、あなた自身がすぐれた人物であるとともに、ほかの人々をそうすることもできるのです。しかも、あなたの自信のすばらしさたるやどうでしょう。ほかの人たちはこの技術をかくしているというのに、あなたたけは、あまねくギリシアの人々に公然と自分を宣伝して、ソフィストとして名乗りをあげ、自分が教育をうけもち徳を教える教師であることを標榜したうえで、そのための報酬を受けることを要求した最初の人なのですからね。<プラトン/藤沢令夫訳『プロタゴラス』p.123 岩波文庫>さらにソクラテスは、知恵・節制(分別)・勇気・正義・経験といった「徳」を人に「教える」ことができるのか、そしてそれによってお金を得るのが正しいことか、プロタゴラスに論争を挑んでいく。プロタゴラスも熱心に答えていくが、最後は「私としては、ソクラテス、君のその熱意と議論の進め方を称賛したい」としながら、「いまはもう、ほかの用事にかからなければならない時間だ」ということで議論を終える。<プラトン『同上』p.164>
参考 アテネを追放されたプロタゴラス
プロタゴラスは『神々について』という書物の冒頭で、次のように述べたため、「不敬罪」で訴えられ、アテネから追放され、その著作は回収されて広場(アゴラ)で焼却された。(引用)神々について私は、あるとも、ないとも、姿形がどのようであるかも、知ることができない。これらの各々を私が知るには障害が多いから。その不明瞭さや、人間の生が短いこと。<納富信留『ソフィストとは誰か?』2015 ちくま学芸文庫 p.29>そのためプロタゴラスの著作は伝わらなかった。現在のわれわれは、ソフィストを厳しく批判したプラトンの著作からしかプロタゴラスや他のソフィストの思想を知ることしかできない。納富氏の諸作はそのような史料上の制約のなかで、本来のソフィストたちの思想と行動を再現しようとした注目作である。