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ソフィスト

前5世紀のアテネなどギリシアのポリスで活動した、弁論術を教えた知者たち。代表的人物にプロタゴラスがいる。彼らの相対主義的な思考は、絶対的な真理を探究するソクラテスによって批判された。

 ソフィスト、とは「知恵ある者」の意味で、前5世紀ごろ、アテネなどのポリスの市民に、弁論術や自然科学などを教えて報酬を受ける、いわば家庭教師たちのことを言う。彼らは真理の探究よりも、いかに相手を論破するかということに力を注いだので、詭弁に陥ることが多かった。代表的なソフィストとしてプロタゴラスがいる。
 プロタゴラス(前500年頃~前430年頃)はトラキアのアブデラ出身であるがペリクレス時代のアテネに来て、ポリスの有力者に授業料を取って弁論術を教授し、ソフィストの最初の成功者となった。その思想は「人間は万物の尺度である」という著作の一節がよく知られており、絶対的な真理は存在せず、価値は人間=個人によって異なるという相対主義と言えるものであった。
 ソフィストの相対主義的な思考を厳しく批判して、徹底した対話の方法によって絶対的な真理を目指したのがソクラテスであった。しかし、喜劇作者アリストファネスが『雲』でソクラテスをソフィストの一人としてからかっているように、当時はソクラテスもまたソフィストの一人と思われていた。ソクラテスを主人公とした多くの対話編で、ソクラテスの口からソフィスト批判を展開したのがプラトンである。
 文明のある時期に、このような多彩な思想家群が登場し、弁論を戦わすという現象は、古代中国でも見られる。前6~3世紀の春秋戦国時代に登場した諸子百家である。単純に比較することは謹まなければならないが、哲学者のヤスパースの言う枢軸時代との関わりで興味ある現象である。

アテネの繁栄

 ソフィストは、前6世紀に始まるイオニア自然哲学が、専ら宇宙を構成する物質の根源(アルケー)の探求に主眼を置いていたのに対し、前5世紀のポリス民主政の隆盛という時代的背景によって、関心を人間と社会、国家(ポリス)のあり方に広げていった。
 特にアテネは、前480年のサラミスの海戦での勝利により、デロス同盟の盟主として覇権を握り、経済活動が活発に行われ、ギリシア各地から様々な人びとが集まってきた。アテネ民主政の指導者ペリクレスの時代には、多くの芸術家が集められてパルテノン神殿が再建されただけでなく、思想家・学者も呼び集められた。アナクサゴラスやプロタゴラスもそのような知識人のなかにいた。

ソフィストの登場

 「ソフィスト」とは「知者」と言うぐらいの意味だが、その多くは、イオニアやシチリアなどのギリシア世界の周辺部からやってきて、一定の報酬を受け取る代わりに、政治の術や法廷弁論などを教えた知識人であった。民主制アテネにおいては、従来の政治体制とは異なり、家柄や財産の多寡に関係なく、「言論」を支配するものこそが国政に参画することができた。この時代に政治的野望を抱く青年たちは、政治の中枢部に入って行くのに必須の言論の力を養成してくれる物を求めた。この要望に応えて登場したのが、アブデラ出身のプロタゴラス、レオンティノイ出身のゴルギアス、さらにケオス出身のプロディコスやエリス出身のヒッピアスなどのソフィストたちであった。
 ソフィストと同時代の人であるが、彼(ソクラテス)だけは生粋のアテネ生まれであった。彼自身が当時はソフィストの一人とされていたことは、アリストファネスの喜劇『雲』で最もあくどいソフィストとして笑いものにされていることで分かる。しかし、次第にソクラテスは、ソフィストとの議論を重ねるうちに、決定的にその違いが明らかになっていく。そして『雲』が上演された前423年から約24年後の前399年にソクラテスは国家の手で殺されてしまう。<山川偉也『古代ギリシアの思想』1993 講談社学術文庫 p.231-236>

参考 アリストファネス『雲』

 アリストファネスの『雲』の主人公はストレプシアデスという老人で、ペロポネソス戦争で畑を荒らされ、おまけに息子のペイティッピアスは馬道楽で借金をこしらえてしまった。そこで、裁判で債権者を言い負かすために息子をソクラテスの学校に入れて弁論術を身につけさせようと思いつく。息子をソクラテスの所(道場)に連れていった親子の会話はこんな風だ。<アリストパネース『雲』1957 岩波文庫 p.45>
 父 これは賢明なる魂の道場だよ。(中略)金を払いさえすれば、この人達は弁論で、正しいか正しくないかおかまいなしに、勝つ術を教えてくれる。
 子 誰ですか。
 父 はっきりとは、名を知らないが、大した先生で、紳士だよ。
 子 うっふ、悪漢どもですね、知ってますよ。あのほら吹き、なまっ白い顔の、裸足の連中だ。あの情けないソクラテスにカイレポーンの連中だ。
 父 おいおい、黙った。馬鹿なことを言うな。だが親父の金のことを少しでも気になるなら、馬の方とはきっぱり手を切って、あの人たちの一人になってくれ。
と言うことで無理矢理息子をソクラテスの所で修行させることになる。そこでは「蚤は自分の足の何倍ほど飛ぶか」とか「蚊は口で鳴くのか尻で鳴くのか」などを真剣に論じている。ソクラテスも月を観察していて青トカゲに小便をひっかけられるような変人奇人として描かれている。息子は相手を言い含める弁論術を身につけるが、こんどは父親を殴ったり蹴ったりしながら、巧妙に自己弁護する。怒った親父はソクラテスの学校のせいだとそこを焼き討ちする騒ぎになって終わる。
 このように「金を払いすれば、正しいか正しくないかおかまいなしに勝つ術を教えてくれる」のがソフィストであり、その代表格がソクラテスだ、というのが当時アテネの評判だった。

プラトンによって作られたソフィスト像

(引用)彼(プラトン)の対話篇をつうじて得られるソフィスト像とは、詭弁を弄する似而非(えせ)知者、若者を誑(たぶら)かす不道徳なイカサマ師といったものである。さらに、ソフィストたちがソクラテスに完膚なきまでに論駁され様を見せつけられると、彼らが真の知恵には与らない二流の知識人である、という印象は免れない。他の証言や断片を完全に圧倒する、生き生きしたソフィストの言動イメージは、プラトン対話篇ならではの劇的効果であった。今日プラトン対話篇を読む私たちだけでなく、それを哲学の「古典」として読み継いできた西洋哲学の長い伝統のなかで、誰もがそういったイメージを受けてきたに違いない。<納富信留『ソフィストとは誰か?』2015 ちくま学芸文庫 p.32>
 そのような主流派的なソフィスト観に対して、ソクラテスやキリスト教を奴隷道徳として批判したニーチェは、ソフィストたちがはじめて道徳批判をおこなったとして評価し、それ以後のソクラテス・プラトン・アリストテレスから近代西洋哲学に続く知性主義、絶対主義、一元主義などの哲学の「反動性」を批判している。相対主義・多元主義に立つソフィストの思想が、多様な価値観を認め合う現代にマッチしているとも考えられる。
 納富信留氏の『ソフィストとは誰か?』は、プロタゴラスと並ぶソフィストでありながら、あまり知られていないゴルギアスとアルキダマスを残された断片からその言説を復元し、そこに「書かれた弁論」である哲学をパロディ化しながら「話される弁論」として展開されたでろう、多彩なソフィストの思想について論じている。この通説的なソフィスト像を覆す、興味深い論考は、2007年度のサントリー学芸賞を受賞、現在はちくま学芸文庫で読むことができる。

ソフィストの実像

 ソフィストという言葉は、「詭弁家」などの訳語に見られるように、悪い名前として広く用いられている。納富氏の『ソフィストとは誰か?』はそのような偏見を払いのける好著であるが、氏も触れているように、ソフィストの本来の姿、あり方に迫った日本人哲学者が、すでに戦前に存在していた。田中美知太郎が1941(昭和16)年に発表した『ソフィスト』である。同書は戦後の1957年に改訂出版され、1976年には講談社学術文庫にも収められたので、読むことができる。田中氏は、「むかしソフィストの悪名を負わされた人たちが、事実どのような人たちであって、どんな時代に、どんな仕事をしたのかということを、根本史料にもとづいて、直接に著者が見たままを明らかにした」のが本書であると語り始める。氏に拠ればギリシア語の原語「ソピステース」の意味は、ただ「智慧のよくはたらく人」とう意味であったが、紀元前5~4世紀にはすでに悪い意味の言葉となってしまっていた。
(引用)ソフィストが悪名と考えられ始めた時代からおよそ二百年の昔(紀元前6世紀初頭)には、ソロンやタレスなどのいわゆる七賢人が、そのもっていた知識のために世人から尊敬され、また感謝されたのである。ところが、それから百年ののち、紀元前6世紀末葉から同じ5世紀の初頭にかけて、ヘラクレイトスとかクセノパネスとかそういうような思想家は、その思想や知識のために自己の孤独を感じなければならなかった。そしてその時代からさらに百年ののち、知識がしだいに普及して来たと信じられるちょうどその時代に、人々はソフィストという名前に非難を感じ、悪名を見たのである。すなわちわれわれは、悪しき名前「ソフィスト」の背後に、ギリシア文化史の二百年を見、かつその間における知識の運命というようなものを、さらに一般的な問題としても考えてみることができるのである。<田中美知太郎『ソフィスト』1941初版 1976 講談社学術文庫再刊 p.11-12>
 本来肯定的な意味であったソフィストに、「にせものの知識を売物にして人を欺くような言論を試みる者」という悪名として用いられるようになったのは、ソクラテス・プラトン・アリストテレスからであった。それに対して田中氏は、ソピステースとは紀元前5世紀から4世紀に、民主政治の国アテナイを中心として、国家有数の人物たることを志す青年たちに、それに即応した政治教育や人間教育、つまり「徳」育を授けることを約束して現れた職業的な教師であって、弁論術に長け、報酬として金銭を要求することが彼らに共通する特徴である。その基準で言えば、プロタゴラス、ゴルギアス、ヒッピアス、プロディコス、エウエノスなどの人々である。
 そして田中氏は、ソピステースの思想のなかに、彼らが「普遍的教養」を授けることによって「人間教育」を行ったのであり、その理念はローマを経て西洋にける正統的なヒューマニズムに繋がる、と評価し、さらに特に前4世紀には彼らは「問答競技者(エリスティコイ)」として技術を競うようになったことを指摘し、そこに見られる「論理的思惟」はプラトンの問答法やアリストテレスの論理学に発展し、ギリシア思想を飛躍的に発展させた、と見ている。
 本書の最後でソフィストが青年を堕落させたというのもプラトンは否定していることを指摘し、次のように言う。
(引用)ところが、プラトンも賛成しないソピステースのこの青年腐敗説を取り上げて、ソピステースをますます危険人物にしてしまった者は、19世紀ドイツの哲学史家たちであった。そしてこのソピステースと戦うために登場する騎士は説教家ソクラテスなのであった。このあまりにも通俗的な道徳家ソクラテスに対しては、われわれもニイチェとともにこれを唾棄しなければならないであろう。そしてその反動としてソピステースが英雄視されなければならなくなる。しかしながら、そのいずれも事実ではなかったのである。<田中美知太郎『同書』p.191>