ソクラテス
古典期ギリシアを代表するアテネの哲学者。対話法による真理の探究をめざし、神話段階から自然哲学、ソフィストの弁論術を経て、人間の徳や魂のあり方に迫る「哲学」(フィロソフィー)の段階に高めたと言える。しかし、前399年にポリス社会においては伝統的な神を否定し若者を惑わす危険思想として訴えられ、裁判によって有罪とされ刑死した。著作は伝わっていないが、弟子のプラトンの対話編によってその思想を知ることができる。
田中美知太郎『ソクラテス』より
ソクラテスは石工であった父と助産婦(産婆)であった母のもとに生まれ、ペロポネソス戦争に従軍したことなどをのぞいて、その前半生はほとんど分かっていない。悪妻クサンティッペなど、エピソードには事欠かないが、ソクラテス自身が書き残した書物は一切無いので、弟子のプラトンの『ソクラテスの弁明』などの多数の対話編、クセノフォンの『ソクラテスの思い出』などによってその生涯と思想を知ることができるのみである。前399年に裁判にかけられて有罪となり、処刑されたことだけは事実であり、その衝撃的な事実から、「哲学」の創始者としてソクラテスは長くその名をとどめることになった。
注意 最近のソクラテス論 ソクラテスは世界史学習上も必須の人物であるが、その思想と行動は、主としてプラトンのフィルターを通してしか知ることができないという資料的制約から、本当の姿はよく分かっていない。最近では、常識とされていた「無知の知」・「悪法もまた法なり」などのソクラテスの言辞は否定されており、ソフィストとの関係、その裁判の経緯なども見直しが進んでいるようです。高校の学習では、上記の部分までを理解しておけば良いと思われますが、興味深いことなので、以下に知り得たことをあげておきます。もちろん、「知らないことは知らない」ことを前提に。
「無知の知」の誤解
ソクラテスに関して必ず語られるフレーズの一つが「無知の知」であるが、それについては誤解があるので注意を要する。プラトン『ソクラテスの弁明』でソクラテス自身の語るところに依れば、あるとき仲間のカイレポンという者がデルフォイのアポロン神殿で「誰よりもソクラテスより知恵のある者はいない」という神託を受けたことを聞いて、その意味を確かめなければならないと一念発起し、知恵があると思われる人を次々と訪ねていった。しかし、彼が訊ねた政治家、芸術家、職人はいずれも、本人たちは自分は知恵があると思っているが、本当は何も知らないのだとソクラテスは気づいた。(引用)しかしわたしは、自分一人になったとき、こう考えた。この人間より、わたしは知恵がある。なぜなら、この男もわたしも、おそらく善美のことがらは、何も知らないらしいけれでも、この男は、知らないのに、何か知っているように思っているが、わたしは、知らないから、そのとおりに、また知らないと思っている。だから、つまりこのちょっとしたことで、わたしの方が知恵のあることになるらしい。つまりわたしは、知らないことは、知らないと思う。ただそれだけのことで、まさっているらしいのです。<プラトン/田中美知太郎訳『ソクラテスの弁明ほか』1968 新潮文庫 p.21-22>つまり、ソクラテスは「知らないことは知らないと思う」と言っているのであり、「知らないことを知っている」と言っているのではない。したがって「無知の知」という言い方は正しくない。「無知の知」とは日本で誤って流布してしまった誤解である。
(引用)ここで大切なのは、ソクラテスが「知らないと思っている」という慎重な言い方をしていて、日本で流布する「無知の知」(無知を知っている)といった表現は用いていない点である。ソクラテスはそんな特別な知者として、人類の「教師」などと崇められる人物ではなく――彼は自分が「教師」であることをくりかえし否定している――あくまで人間が知恵という点でどのように謙虚であるあるべきか、を代表して示している。そこで初めて、哲学が始まるからである。<プラトン/納富信留訳『ソクラテスの弁明』2012 光文社古典文庫 解説 p.129-130>
ソフィストとソクラテス
ソクラテスは、アテネ社会ではソフィストの一人として見なされており、喜劇作者のアリストファネスの作品『雲』では嘲笑の対象とされていた。しかし、ソクラテスは、プロタゴラスやゴルギアスなどのソフィストが、人に「徳」のあり方を教えることは可能であると考えたことに疑問を呈し、さらに民会や裁判で有利になるような弁論術を高額の授業料を取って教えていることを厳しく批判した。ソクラテスはソフィストの相対主義や懐疑主義を批判し、対話によって絶対の真理を探究する「知を愛好する人=愛知者、つまりフィロソフィー」であるとして際立たせたのはプラトンであり、実際のソクラテスはソフィストと同類の詭弁を弄して若者を惑わせる人物として危険視されていた。その背景には、ソクラテスの思想のなかに、衆愚政治的な民主政治を否定する側面もあり、形式的な民主政を維持しようとする人々にとって、放置できない人物であった。ただし、主としてプラトンの著作によって作られたソフィスト対ソクラテスという図式については、最近は見直しがされているようだ。<納富信留『ソフィストとは誰か?』2015 ちくま学芸文庫 など>ソクラテスとアテネの政治情勢
ソクラテスが一人の思想家(当時は宗教家、教育者と受け止められていた)にすぎなかったにもかかわらず、裁判にかけられ、死刑となった背景には、アテネの政治情勢があった。その点については田中美知太郎の『ソクラテス』の次の文が事情を説明している。(引用)ソクラテスを死に至らしめたものは、一方においては、時勢の変化である。ソクラテスの前半生は、かのペリクレスの名に結びつく、平和と繁栄の時代に重なっている。しかしかれの40歳前後から、時勢は変わり、ギリシア人の間における世界大戦とも見なされるべき、かのペロポネソス戦争(431~404年)が、断続しながら、約30年にわたって、人々の生活に暗い蔭を落としたのである。そしてこの憂鬱な戦争は、ソクラテスの祖国の敗北をもって終わった。アテナイには、占領軍の武力を背景とする、いわゆる三十人の独裁政権が樹立されるなど、戦争の終結は、必ずしも平和を意味しなかった。このような終戦の混乱のうちに、ソクラテスは殺されたのである。戦争が終わり、独裁主義革命の波が去った後で、人々の一種の反動的な気持が、ソクラテスという人物のうちに危険を感じたわけなのである。アリストパネス劇の結末は、20数年前には、ひとつの滑稽にすぎなかったけれども、戦後においては、もはや笑いごとではなかった。戦争責任者のアルキビアデスも、独裁政権の首領クリチアスも、みなソクラテス的教育が生みだしたものではないかと、人々は疑っていたからである。・・・メレトスの訴状は、ソクラテスの罪として、青年に害毒を及ぼすとか、青年を腐敗させるとかいうことを、別項目にあげている。これは現実にソクラテスが、ひろく青年と接触して、これに影響を及ぼしていることを意味するものであろう。<田中美知太郎『ソクラテス』1953 岩波新書 p.123-4>田中氏はこのソクラテスの直面した時勢の変化を「しかし何という時勢に!いまやペリクレス時代の自由と寛容の精神は去って、戦争と内乱による不寛容の党派心が支配しつつあったのである」と結んでいる。<田中『同上書』 p.128>
※ ソクラテスの民主政批判 ペロポネソス戦争後のアテネで、スパルタの支援を受けて成立したクリティアスを中心とした三十人政権の独裁政治に反抗し、民主制を守ろうとしたのがアニュトスであった。アニュトスは鞣皮屋の職人あがりでペリクレス後のアテネで扇動政治家(デマゴーゴス)の一人とされており、またソクラテスの告発者として評価は悪いが、原理的民主主義者だったのだろう。彼は亡命先から武装してアテネに戻り、激しい内戦を経て三十人政権を倒した。そのアニュトスからみれば、アテネの民主政を否定するソクラテスの影響でペロポネソス戦争の敗北を導いたアルキビアデスや、三十人政権を建てたクリティアスなどが登場したと捉えていたのだった。メレトスが起こしたソクラテス告発であるが、アニュトスがそれに加わったことが、ソクラテスが有罪とされる上で大きな力となったことが、プラトンの『ソクラテスの弁明』でも指摘されている。
このようにソクラテスを告発したのは民主派と見なされる人々であり、陪審員となった市民の多くが有罪を支持した。 たしかにプラトンの対話編を読んでいると、ソクラテスが非民主政であるスパルタの国政を礼賛し、アテネの民主政の、例えば公職をクジ引きで選出することなどに対し批判的であったことがわかる。これらから、現行の山川出版社詳説世界史が、ソクラテスの説明に「民主政には批判的で、市民の誤解と反感を受けて処刑された」という文をつけ加えたのであろう。ソクラテスが、民主政治に対し否定的であったというのは、現代のわたしたちから見れば意外かもしれないが、それは当時のアテネの政治情勢の中でのことであって、現代の民主政治批判にまで及ぼして議論するのは無意味であろう。 → アテネの衰退
ソクラテス以後
ソクラテスの思想がソフィストの相対主義を克服し、人間の正しい生き方を説く「フィロソフィー=哲学」に高められたものであったことは、弟子のプラトンの多くのソクラテスを主人公とした対話編によって主張された。プラトンの著作によって、ソクラテスの登場が、自然を対象とした自然哲学と、弁論術に留まっていたソフィストの段階から、人間の徳や社会の正義をに目を向けた本当の意味の哲学の段階に高められたという評価が定まり、ギリシア思想は「ソクラテス以前と以後」とに分ける見方が一般的になっている。ソクラテス以後を代表するプラトンは真理探究をさらに進め、認識論ではイデア論、政治論では徳治主義を展開した。さらにプラトンの弟子アリストテレスはギリシア思想の流れを総合して、哲学の体系化を推し進めた。ソクラテス裁判とその資料
ソクラテス裁判はメレトス、アニュトス、リュコンという三人のアテネ市民によって告発されたものであった。その告発理由は、(引用)ソークラテースは国家の認める神々を信奉せず、かつまた新しい神格を輸入して罪科を犯している。また青年を腐敗せしめて罪科を犯している。<クセノフーォン/佐々木理訳『ソークラテースの思い出』1953 岩波文庫 p.21>というものであった。青年を腐敗させたというのは、例えばソクラテスの影響を受けたアルキビアデスがアテネの権力を握り、その非民主的なやり方がペロポネソス戦争での敗北の一因となり、また戦後にスパルタの後押しによって成立し寡頭政治を行った三十人政権の中にソクラテス派の人物クリティアスがいたことを指している。ソクラテス裁判は、三十人政権を倒して民主政治を復活させた民主派政権の下で起こされたのだった。
裁判はアテネの民衆裁判所の陪審制で行われ、原告・被告の弁論の後、有罪か無罪かの表決が行われ、500人の陪審員(501人説もある)のうち「わずか30票の僅差で」有罪となった。次いで量刑について審議され、死罪の求刑に賛成が多数(80票が賛成に回ったという)となり、ソクラテスの死刑が決まった。裁判におけるソクラテスの弁明を克明に復元した(多分に創作も含まれると思われるが)のがプラトンの『ソクラテスの弁明』である。
死刑判決後、弟子の一人クリトンは獄中のソクラテスを訪ね、獄吏を買収して脱獄することを熱心に勧めた。しかしソクラテスは、脱獄は「正しく生きる」ことにはならない、としてそれを拒否した。獄中のソクラテスとクリトンの国家と国法のありかたと正義をめぐる真剣な問答を再現したのがプラトンの『クリトン』である。
脱獄という不正を犯すことで助かろうとしなかったソクラテスが、いよいよ死刑執行の日を迎える。死刑は毒人参の汁を飲むことで行われたが、そこで弟子のパイドンたちと交わした会話は、人間の魂についての深い洞察になっている。その会話を記録し、最後のソクラテスの様子を詳しく伝えるのがプラトンの『パイドン』である。『パイドン』によれば、毒杯を「いとも無造作に、平然と飲みほした」ソクラテスは、廻りの弟子たちが泣き叫ぶのをたしなめ、あちこと歩きまわったあとで脚が重くなったと言って仰向けになり、彼に毒を渡した男が足先から上に向けて身体を触って冷たく硬くなっていくのをたしかめていった。毒が心臓まで達する前に、ソクラテスは最後に「クリトーン、アスクレーピオスに鶏をお供えしなければならない。忘れないで供えてくれ」と言い残して冷たくなった。<ソクラテス裁判は、プラトンの三部作『ソクラテスの弁明』・『クリトン』・『パイドン』に詳しく描かれている。それぞれ岩波文庫や光文社古典文庫で読むことができる。この三編が一冊の文庫本に収められている新潮文庫版(田中美知太郎・池田美恵訳)が便利。裁判のくわしい経過は加来彰俊『ソクラテスはなぜ死んだのか』2004 岩波書店に論じられている。>
参考 「悪法もまた法なり」とは言わなかった
ソクラテスが裁判の判決に従って自ら刑死した際に、「悪法もまた法なり」といって死んでいった、という話はいたるところに記されている。山川出版社世界史用語集もソクラテスの項で“民衆裁判で死刑の判決を受けて「悪法も法なり」と称して刑死した”と書いている。かくいうここでも先日までそのように書いていた。ところがこれが間違いであることが加来彰俊氏『ソクラテスはなぜ死んだのか』を読んで判明した。次に同氏の文を長いが引用する。(引用)だがこの点に関しては、ソクラテスは誤解されている場合も少なくはないように見えるので、ここでもう少し付け加えておくことにする。言うまでもなく、法は本来、正義を実現しているものであるべきだが、それは法の理想であって、現実の法は必ずしもそうではない。ところが、現行の法に不備や欠陥があっても、国の為政者たちは「法に従うのが正しいこと」だと力説して、国民にその法を守らせようとする場合が多い。そしてその際彼らは、自分たちの立場を正当化する口実として、ソクラテスの名前を持ち出しているのをわれわれはよく目にする。すなわちソクラテスは、「悪法もまた法である」と言って、悪法であることを知りながらも、その悪法に殉じて死んでいったのであり、彼は法を守る人間の鑑だとされているわけである。
しかし、このように為政者たちに都合のよい仕方で自分の名前が利用されることは、ソクラテスにとっては、はなはだ迷惑なことであったろう。「悪法も法である」と彼が言った証拠はどこにもないし、また彼がそんなことを言うはずもないからである(事実、悪法は、厳密に言えば、法ではないから、その命題は言語矛盾を犯しているものなのである)。それにまた彼は、どんな悪法にもただ黙って従っていたわけでもない。たしかにソクラテスは、祖国アテナイに人一倍愛着をもち、アテナイの国法を尊重して、これに従って生涯を送ってきた人であるが、しかし当時の民主制的な法や制度のすべてをよしとして是認していたのではなく、その欠点はきびしく批判していたのであった。だがしかし、祖国の法に誤りかあるからといって、これを暴力的に否定することを彼は絶対に許容しなかったし、また、いわゆる「市民的不服従」の考えは、彼の思いも及ばないものであったろう。だからソクラテスの考え方からしても、一般論としては、人は誰でも、自分の住んでいる国の現行法に従って生きるべきであり、またそうするより他はないということになるであろう。しかし、そうであるとしても、前にも述べたように、法に従うことが不正を行なうことになるような場合だけは、ソクラテスは死の危険を冒しても、これを断固として拒否したのだった(彼の正義の主張は、実質的には、不正は決して行なわないということであったから)。他方、法に従うことによって、仮に自分が不正な目に遭わされるとしても、そして極端な場合には死刑になるとしても、それはそれでやむをえないことと彼は考えていたにちがいない。そしてこれが、ソクラテスは自分の無罪を確信しながらも、合法的な手続きで死刑の判決が下された以上、脱獄という違法・不正の行為をしないで、その判決に服して死んでいった理由であったと思われる。<加来彰俊『ソクラテスはなぜ死んだのか』2004 岩波書店 p.214-216>
Episode ソクラテスの結婚
ローマ時代に書かれたディオゲネス=ラエルティオス『哲学者列伝』では、アリストテレスの伝えるところによると、としたうえで、ソクラテスは二度結婚したとしている。最初の妻がクサンティッペ、後妻がミュルトであるが、その順は逆だったかもしれない。アテネでは人口が不足していたのでアテネ女性と結婚しても、子供をつくるのは別の女性でもよいと議決したので、ソクラテスも従ったのだという。ソクラテスの二人の妻のうち、クサンティッペは悪妻であったことで有名で、同じくラエルティオスの伝えるところでは次のようなエピソードがある。
(引用)初めのうちはがみがみと小言を言っていたが、後には彼(ソクラテス)に水をぶっかけさえしたクサンティッペに対して、彼はこう応じた。「ほうら、言っていたではないか。クサンティッペがゴロゴロと鳴り出したら、雨を降らせるぞと。」もっともプラトンの『パイドン』にはソクラテスの最後の日にクサンティッペが子供を抱いてその傍らで泣いていた」と伝えている。田中美知太郎は『ソクラテス』(岩波新書)で、「ソクラテスが、何か彼女には理解できないようなことに熱中して、少しも家のことをかえりみないので、そのために貧乏がひどくなって行くとしたら、彼女のようなはげしい気性から、いわゆる悪妻が生まれてくるとしても、別に不思議はない」<田中美知太郎『ソクラテス』岩波新書 p.147>と同情している。
クサンティッペががみがみ言い出したら我慢しておれないとアルキビアデス(ソクラテスに惹かれていたと伝えられている若者)が言ったのに対しては、「いや、ぼくはもうすっかり慣れっこになっているよ。滑車がガラガラ鳴り続けているのを聞いているようなものだものね」と彼は答えた。「そして君だって」と彼はつづけた。「鵞鳥がガアガア鳴いているのを我慢しているではないか。」そこでアルキビアデスが、「でも、鵞鳥はわたしに卵やひよこを生んでくれます」と言うと、「ぼくにだって、クサンティッペは子供を生んでくれるよ」とソクラテスは切り返した。<ディオゲネス=ラエルティウス/加来彰俊訳『ギリシア哲学者列伝』上 岩波文庫 p.147>
ソクラテスは「結婚したほうがよいでしょうか、しないほうがよいでしょうか」と訊ねられたとき、「どちらにしても、君は後悔するだろう」と答えたという。<ディオゲネス=ラエルティウス『同上書』p.144>このあたりが結婚の真実であろう。
Episode 醜く死んだ?ソクラテス
なおソクラテスの生没年、前470/469~前399年を、「死なれ、みにくく」と訓むのは、加藤尚武氏の『ジョーク哲学史』<1983 河出書房新社 p.36>