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シチリアの奴隷反乱

前2~1世紀、共和政ローマ末期に属州シチリア島において、前135年と、前104年の二度、大規模な奴隷反乱が起こった。前73年のローマの奴隷反乱の先駆けとなった。

 ローマ共和政時代の末期、前2世紀の終わりに属州シチリアで起こった奴隷反乱。前135~前132年のものと、前104~100年までとの2回起こっている。反乱はいずれも鎮圧されたが、前2世紀のローマ共和政の動揺を示し、また後の前1世紀に起こる大規模なの奴隷反乱であるスパルタクスの反乱の先駆となった。

前135年の奴隷反乱

 前135年、奴隷制による農業、牧畜経営の盛んであったシチリア島で奴隷の大反乱が起こった。「シシリーの臍」、要害の地エンナを中心に立ち上がったグループと南西部の一派が1つになって反乱は拡大し、ローマもその鎮定に手を焼いた。この反乱はローマやアテネのラウレイオン銀山やデロス島にも波及して奴隷が反乱を起こした。いずれも鎮圧されたが、ローマの地中海制圧にたいする一連の反抗と捕らえることができる。ローマは前133年にようやく鎮圧することができた。(第一次奴隷反乱)

Episode 妖術をつかう奴隷王の反乱

 シチリア島東部シラクサの西の山中のエンナの奴隷エウヌス(シリア人であったらしい)は、口から炎を吐くという妖術を行い、予言者であると称して自ら王に就くことが約束されていると語り、周辺の奴隷をさそって反乱を起こした。エンナの町を占領した奴隷反乱はエウヌスを王としてあがめた。島の西南部でも奴隷反乱が始まり、全島を支配した。ローマ当局はようやく前133年にコンスル自ら鎮圧にあたり、ようやく奴隷軍を制圧した。

前104年の奴隷反乱

 前105年に剣闘士奴隷の試合が公的な見世物のひとつとして認められたが、その翌年の前104年に、シチリア島でサルウィウス、アテニオンが指導する大奴隷蜂起がおこり、この奴隷軍は、五年間にわたって頑強にローマ軍に抗戦した。その反乱は次のようなものであった。(第二次奴隷反乱)
(引用)指導者アテニオンが戦死したのちも、なお、粘り強くつづけられた。これに手をやいたローマの将軍は、最後に残った奴隷部隊千人の指揮者サテュルスにたいして、無抵抗に降服すれば処罰することなく解放すると約束した。こうして、ローマの将軍は奴隷たちをだまして捕え、ローマに剣闘士奴隷として送りこんだ。そして、彼らは猛獣と闘うことを強制された。しかし、彼らはこれを拒否した。奴隷たちは、ローマ市民の見世物になるよりは死を選んだのである。つまり、彼らは猛獣と闘う前に、フォルムの祭壇の前で、衆人環視のなかで相互に殺しあい、サテュルスは最後の一人を殺してから、自らの手で自らを殺し、英雄的な「もっとも輝かしい」壮絶な最期をとげたのであった。<土井正興『スパルタクスの蜂起』1973(新版は1988)青木書店 p.14>