印刷 | 通常画面に戻る |

ローマ共和政

古代の都市国家ローマにおいて、前5世紀に始まる身分闘争を経て、前3世紀初めには平民が貴族と同等の権限を得て、共和政が完成した。中小農民はローマの半島統一戦争を支える重装歩兵として中核となったことを背景に、共和政を実現したが、地中海征服戦争が長期化する中で中小農民が没落、前1世紀の内乱を経て次第に大土地所有を基盤とした有力者が政権を独占し、ローマは共和政から帝政に移行した。ローマ帝国のもとでも都市共和政の伝統は続いた。

 中部イタリアの一つの都市国家として出発したローマは、王政を倒した後に、コンスル(執政官、統領ともいう)を中心とする貴族共和政に移行しながら支配領域を拡大していったが、その過程で力をつけてきた平民(プレブス)が次第に貴族(パトリキ)に対する平等な権利を要求して身分闘争を展開し、市民による共和政国家としての性格を強めていった。このような貴族と平民がともに市民として平等な社会・政治体制を、ローマ市民はラテン語でレス・プブリカ Res Publica と呼んだ。日本語では「共和政」と訳される。
共和国=”リパブリック”の原義 
(引用)今日「人民」と訳されるピープルの語のもとは、ラテン語のポプルスである。この言葉はもともと戦士の共同体を意味し、ポプラーレという動詞(不定形)は「掠奪する」ことを意味した。今日共和国と訳されるリパブリックのもとは、ラテン語のレース・プーブリカで、それは「戦士団(ポプルス)、市民団のもの」の意味だった。<村川堅太郎他『ギリシア・ローマの盛衰―古典古代の市民たち』初版1967 再刊1993 講談社学術文庫 p.131>

ローマ共和政の形成過程

 まず前5世紀始めに平民会の設置、護民官の設置にはじまって、平民の政治的権力獲得の歩みを開始し、前450年頃の十二表法制定で法の前での平等を実現させ、前4世紀中頃のリキニウス=セクスティウス法制定でコンスルの一人を平民から選出することが決まり、前3世紀前半のホルテンシウス法で平民会の決議が国法となることによって完成した。「ローマ共和政」は、都市国家ローマの市民によって運営されたが、そのローマがイタリア半島統一戦争を展開するなかで平民が重装歩兵として中核となったことによって、その発言権が増していった。しかし、ローマが前3世紀から地中海世界にその支配を拡大していくに伴って、共和政は形式としては維持されたが、実質的にはその機能を失ってゆき「ローマ帝国(ローマ帝政)」へと移行していく。
ローマ共和政の形成過程のまとめ(同時にローマの半島統一戦争が展開されていることに注意)。

ローマ共和政の仕組み

 前3世紀前半に完成したローマ共和政の国政は、民会・政務官・元老院の三つの機関によって担われていた。この三機関は相互に補完しつつ抑制する権限をもつ。
  • 民会:全市民が参加する最高議決機関。(1)貴族会(クリア民会)、(2)兵員会(ケントゥリア民会)、(3)区民会(トリブス民会)、(4)平民会(平民のみが参加)に分かれる。立法、外交、政務官の選挙など。採決が主で、議論は行われなかった。
  • 政務官:国政の実務を担当。独裁官(1名、任期半年)・監察官(2名、1年半)・執政官(コンスル、2名、1年)。他に法務官、造営官、財務官、護民官がある。独裁官を除きいずれも複数制(時期によって増員)、任期は独裁官・検察官を除き原則1年。
  • 元老院:政務官を助言・勧告し、民会に承認を与える。定員300人で議員は終身。欠員が出ると政務官経験者から選ぶ。結果的に貴族新貴族が独占。共和政・帝政を通じ、力を持った。

ギリシアの民主政との相違点

 ローマの民主政をギリシアの民主政(その典型としてのアテネ民主政)と比較すると、成年男子のみの市民権を持つ市民による民主政という点、奴隷制を基盤としている点は共通している。同時に重要な点で相違がある。ギリシアの民主政とローマの民主政の相違点の主なものは次の3点をあげることができる。
  • 元老院の存在 ローマの民会(兵員会)の構成員は平等ではなく、また平民会は存在し国家の最高機関となったが、貴族の終身議員で構成される元老院は依然として力を持ち、独裁官などの権力集中が法的に認められていた。この点では、ローマの民主政は不徹底であった。
  • 市民権の広がり 民主政の基本となる市民権は、ギリシアの場合はそのアテネの市民権法にみられるように、市内に住む市民に限定されていた。それに対してローマ市民権は、ローマの支配領域の拡張に伴い、各地に設けられた植民市の市民にも市民権が与えられた。またギリシアでは認められなかった解放奴隷もローマでは市民として認められた。こうしてローマでは市民権付与に寛大であり、その範囲も次第に広がっていった。
  • 奴隷制の違い 基盤であった奴隷制も、ギリシアの奴隷制は家内奴隷が主であったが、ローマの奴隷制では戦争捕虜の奴隷化が進み、大規模な奴隷制労働による大土地所有制が発達するという違いがあった。
 ギリシアは都市国家が統合されることはついになかった。アテネも「アテネ帝国」といわれることもあるが、基本的にはそれも都市同盟にすぎなかった。それにたいして、都市国家から出発したローマは次々と周辺の都市国家を征服し、最終的には世界帝国となった。ローマ帝国では民主政と共和政は形式的には残ったが、実態は形骸化し、皇帝の専制君主政に変質した。

古典古代の民主政

 前510年、アテネでは市民によって独裁者ペイシストラトスが追放され、僭主政から民主政へと大きく舵を切った。翌前509年、ローマではエトルリア人の王が追放され貴族共和政に移行した。ギリシアでは前5世紀中頃のペリクレス時代に民主政の完成期を迎えた。ローマでは(ギリシアのような史料は明確ではないが)前3世紀にホルテンシウス法で民主政の成立を見た。時期的なずれはあるが、いずれも地中海世界の古典古代に都市国家における民主政を実現したものであった。両者には共通する性格も多いが、それぞれの個性も認められる。ローマの民主政の個性について、前記以外にも次のような指摘があるので紹介しておく。
(引用)共和制になってからのローマは、貴族政時代のギリシアのポリスに似た国制をもった。毎年二人が就任する最高官の統領(コンスル)、また法務官(プラエトル)などの高官の任期は一年で、行政や司法の官であるとともに軍司令官だった。役人はすべて名誉職であった。しかしローマでの高官で注意すべきは、彼らが昔の王のもっていた大権(インペリウム、軍指令権、行政権、死刑をふくむ懲罰権)をもっていたことだ。その外出には先導吏(リクトル)たちが大権を象徴するファスケス(斧と棍棒の束)をかついで露はらいの役をした。彼らの腰かける椅子も特別製といったわけで、ローマでは役人が偉いのである。したがってローマは役人をきめるのに選挙により、アテネのように籤引きなどにはなりえなかった<村川堅太郎他『ギリシア・ローマの盛衰―古典古代の市民たち』初版1967 再刊1993 講談社学術文庫 p.132>
 ローマにギリシアのような僭主政は出現しなかった。護民官は「消極的独裁者」といわれ僭主的な存在であったが、それも民主政の枠内での権限を出ることはなかった。またギリシアのような衆愚政治にも陥らなかった。それには保守層を基盤とした元老院による集団指導が機能していたことが考えられる。<村川堅太郎他『同上書』 p.132-135>

ローマ共和政のもとでの公職選挙

 ローマの役人=政務官ポストはいずれも選挙で選ばれた。選挙運動は盛んに行われたが、その実態は次のようなものだった(共和政末期、内乱の一世紀と言われた頃)。

Episode 目立つ白衣で遊説

(引用)まず立候補者は人の目を引かなければならない。目立つ服を着た。白い衣服をつけたのである。彼らは、ローマ市内だけでなく、イタリアの各地を巡回した。何ヶ月も遊説旅行をした。この時代には、選挙期限のちょうど一年前から遊説は認められていたのだ。また立候補者は、記憶力のすぐれた奴隷をひきつれ、道でローマ市民にであうと、その市民の一人一人の名を、奴隷に名のらせて、名ざしで挨拶した。これは立候補者が、ここの選挙人の名をよく知っているぞ、ということを示すことになる。<長谷川博隆『カエサル』1994 講談社学術文庫 p.50 この書ではカエサルがさかんな選挙運動で公職を一歩一歩駆け上がって行くことが描かれている>

Episode アンビシャスの原義

(引用)ところで、選挙運動にあたる言葉は、アンビトゥス(ambitus)である。これはアンビティオ(ambitio)から生まれた表現、つまり「巡回する、へめぐる(引用者注、経巡る)、求める」からでてきた言葉であった。市民の間をまわり歩くこと、そして民衆の愛顧に訴えること、それが文字どおり選挙運動の第一歩だった。ところが、おもしろいことに、アンビトゥスの意味が変化し、「買収」をあらわすことになるのだ。
 アンビトゥスとは遊説という意味とともに「買収」という意味をも持つこと、そこにローマの選挙の特色を示唆するものが秘められているのではないだろうか。なお、英語のアンビション、大望とか野心と訳される言葉も、ここから来ている。<長谷川博隆『同上書』 p.51>

Episode あたりまえだった買収

(引用)買収は当たり前のこと、日常茶飯事であった。だいたい立候補者から買収用の金を受けとって、それを各地区の選挙人に分配する「地区分配人」なる代物もいたのだ。もっともこの「地区分配人」というのは、穀物とか金銭配分の一種公的な仕事もしていたのである。将軍マリウスはこれいをうまく利用して、金をばらまき、七回もコンスルに選ばれている。・・・・
 「いかなるものもローマでは売買の対象となる」といわれていたほどであった。もちろん、選挙運動を制限すること、つまり買収をとりしまるための法律は何回も出されている。・・・しかし焼石に水、というよりも、もっと効果の薄いものだった。法律が出されるということ自体、いかに買収がさかんであったかを示すものであった。まさに「国家がもっとも腐敗せる時には、法律はその数もっとも多し」という言葉がぴたりである。<長谷川博隆『カエサル』1994 講談社学術文庫 p.51-52>
 現代の日本も、公職選挙法や政治資金規正法がしきりに改定されても選挙違反が絶えないのですから、ローマ時代とあまり変わっていないようです。

共和政の動揺

 前3世紀~前2世紀、ポエニ戦争マケドニア戦争などのローマの征服戦争の長期化と、属州からの安価な穀物の流入などによって中小農民の没落が進み、貧富の格差が拡大したことは、共和政を大きく動揺させることになった。一つは執政官や独裁官、護民官などの執行機関とその基盤である議決機関としての平民会、諮問機関としての元老院というローマ共和政のシステムがくずれ、政治の実権は一部の有力者にゆだねられるようになったことでる。さらに彼ら有力者が閥族派平民派に別れて争うようになった。一つは大土地所有の進行は奴隷制に依存していたので、その拡大は奴隷に対する収奪を激しくすることとなり、それに反発した奴隷反乱が起き始めたことであった。

共和政から帝政へ

 前2世紀後半には共和政の動揺は覆い隠すことが出来なくなり、前1世紀の「内乱の1世紀」といわれた混乱期に、スラポンペイウスなど軍人が政治権力をふるうようになり、前46年にカエサルの独裁政権が成立した。元老院による共和政を維持しようとした勢力によってカエサルは暗殺されたが、その貢献者として登場したオクタウィアヌスが前27年にアウグストゥスの称号を贈られて、皇帝として君臨するローマ帝国が成立した。