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スパルタクスの反乱

前73年に剣奴スパルタクスが指導して起こしたローマ史上最大の奴隷反乱。前71年にクラッスス、ポンペイウスらによって鎮圧された。この前後の「内乱の1世紀」に共和政の矛盾が明らかになり、ローマは帝政に移行していく。

 共和政ローマが都市国家から領域国家へ変質し、支配者階級が閥族派平民派に分かれて政治闘争を繰り返していた内乱の1世紀といわれる時期の、前73年~前71年に起こった、ローマ史上最大の奴隷反乱がスパルタクスの反乱(スパルタクス戦争とも言う)であった。反乱を指導したスパルタクスはトラキア(バルカン半島ブルガリアの南部)で捕虜となり剣奴(剣闘士奴隷)とされた人物であった。この時期、ローマはイタリア同盟市戦争ミトリダテス戦争などの対外戦争も戦っており、ローマ共和政の基盤である奴隷制を揺るがす反乱が内部から起こったことは、建国以来の危機ととらえられた。

奴隷制の形成

 ローマは前3~前2世紀にポエニ戦争マケドニア戦争によって広大な属州を獲得、征服戦争の捕虜が属州から大量に奴隷としてもたらされるようになり、一方で中小農民の没落が進んでラティフンディア(大土地所有)が拡大すると、奴隷はその労働力とされていった。また一部の奴隷は剣奴(剣闘士奴隷)として訓練を受け、有力者がローマ市民に提供する「パンと見せ物」のなかの見世物に供された。

奴隷反乱の背景

 大土地所有の進展は奴隷に対する搾取を強め、すでに前2世紀には2度にわたってシチリアの奴隷反乱が起きていた。さらにローマ共和政の変質が進む中で前1世紀の「内乱の1世紀」といわれる混乱期になると奴隷に対する搾取はますますひどくなり、奴隷反乱が各地に起こったが、その最大の蜂起がスパルタクスの反乱であった。

反乱の概略

 前73年に蜂起した反乱軍はイタリア半島を南北に動き回り、ローマ軍はその鎮圧に手間取ったが、スパルタクスはローマ攻略を回避してシチリアに向かい、地中海の海賊と連携してアフリカに渡ろうとした。しかし、次第に反乱軍内部の対立もあって次第に勢力が衰え、最終的には前71年、ローマの将軍クラッススポンペイウスの率いるローマ軍との決戦に敗れ、スパルタクスも戦死し、鎮圧された。スパルタクスの反乱は、ローマの社会と政治に大きな衝撃を与え、すぐには奴隷解放には結びつかなかったが、権力のさらなる集中である帝政へと向かうこととなる。

反乱の経緯

 カプアの剣闘士学校では、剣闘士奴隷(剣奴)が、観衆の娯楽のために死ぬ訓練を受けていた。ある日200人が脱走を企て、78人が成功、付近を掠奪し、スパルタクスというトラキア出身の仲間を首領に選ぶ。雄弁で才能豊かなスパルタクスは、イタリア全土の奴隷階級にアッピールを発し、七万を組織、自由と報復に餓える反乱軍団を作り上げ、武器の製造と用法を教え、元老院派遣の鎮圧軍を再三にわたって敗走させる。スパルタクスは勝利に酔わず、アルプスを超えて解散帰郷の方針を立てる。しかし仲間を一本化できずイタリアにとどまる。一時はローマに迫ったが、クラッススがローマ軍全体を指揮して迫ると激突を避け、南進してシチリアに向かった。奴隷軍の中にもスパルタクスらトラキア出身者はイタリア半島南端からアドリア海を渡って帰国することを目指したが、ガリア出身者は再び北上してアルプスを越えることを主張して内部が対立した。やむなくクラッススの追撃を蹴散らした後、二方向に分かれようということになり、再び北上してクラックス軍との決戦に挑んだ。前71年春、すでに戦力で開きが出ていたため、奴隷軍は苦戦に陥り、ついにスパルタクスも倒れた。クラッススは捕虜6千人を見せしめのため、十字架にかけ、アッピア街道にさらした。戦場から逃れた奴隷は北上したが、そのときスペインから急行したポンペイウス軍が、残存部隊を掃討した。<モンタネッリ『ローマの歴史』中公文庫/土井正興『スパルタクスの反乱』青木書店 などによる>
※スパルタクスの反乱については、土井正興氏『スパルタクスの蜂起』1973(新版は1988)青木書店 が多くのことを教えてくれる。
※カーク=ダグラスがスパルタクスを演じたスタンリー=キューブリック監督の映画「スパルタカス」は、ハリウッドの史劇ものには珍しく、史実にそってドラマを作っている。劇中の“愛のテーマ”も美しい。ジャズで良く演奏される曲目になっている。 → ビル・エバンス(pf) ジェレミー・スタイグ(ft)  “Bill Evans - Spartacus Love Theme”
※なお、スパルタクスの名は、第一次世界大戦の末期、ドイツ革命で蜂起したスパルタクス団で復活する。

参考 プルタルコスの伝えるスパルタクス

 スパルタクス反乱を直接伝える同時代の資料は少ないので、およそ150年後の人であるプルタルコスが、『英雄伝』のクラッススの項に伝える記事は重要である。
(引用)一般にスパルタクス戦争と呼ばれている剣奴の反乱と彼らのイタリア劫掠とは、次のような原因から始まった。レントゥルス・パティアトゥスなる者がカプアで剣奴を養成していた。その多くはガリア人とトラキア人であった。彼らは、非があるからというわけでなく買主の邪(よこしま)な考えによって無理やりに一緒に閉じ込められ、剣技に携わっていた。その二百人が逃亡を謀ったのである。密告が行われた。前もってそれを知り、いち早く行動を起こした78人の者たちが、台所から包丁や焼串を取って跳びだした。道でよその町に剣奴の武器を運んで行く何台かの車に出くわしたので、それを奪って武装した。そして屈強の場所を占拠すると三人の首領を選んだ。その第一に位するのがスパルタクスであった。彼はトラキアのマイドイ族の出で、勇気と力とに優っていただけでなく、知恵も温和な人となりも彼の境遇に比すれば立派であり、その生まれた種族よりむしろギリシア人に似ていた。彼についてはこういう言い伝えがある。初めローマに売るために連れてこられたとき、眠っている彼の顔に蛇が巻きついているのが見えた。予言を能くしディオニュソスの秘儀によって霊感を受ける、スパルタクスと同族の婦人がいたが、その語るところでは、これは彼が偉大なおそるべき勢力となってやがて不幸な結末に至る前兆なのであった。この女は、反乱当時、彼と同じ屋根の下にいて、脱走するのも一緒だった。<プルタルコス/伊藤貞夫訳『プルタルコス英雄伝』下 ちくま学芸文庫 p.18>

奴隷反乱は何故敗れたか

 スパルタクスの反乱は、20万近くの奴隷を結集する大蜂起(当時、イタリアには200万の奴隷がいたと言われる)、当時元老院議員だったキケロは「最大級のイタリア奴隷戦争」と評価し、その蜂起を「大きなすさまじくおそろしいもの」と表現、「不安と危険に満ちた」動きと受けとっていた。まさにローマ国家は危機を迎えたと言える。しかし、スパルタクスはローマを攻撃することはできず、祖国に帰還しようとして、最後は鎮圧されてしまった。なぜこの反乱は失敗に終わったのだろうか。その理由を、土井正興著『スパルタクスの蜂起』に沿って考えてみよう。
  • 同時に地中海世界各地で起こっていた反ローマ闘争――小アジアのミトリダテス戦争イベリア半島のセルトリウスの反乱、その他にガリアやトラキアでの反ローマ暴動、地中海の海賊活動など――との連帯、同盟がなかった。ただし、地域的権力の反ローマ闘争と、奴隷解放をめざす階級闘争とは連帯できる条件はなかった。
  • 蜂起した奴隷は一部の剣奴に率いられた、主として南イタリアの大土地農園の労働力として搾取されていた農業奴隷であり、ローマ市内の家内奴隷、商工業に従事する奴隷などは加わらなかった。また、その多くが非イタリア人の奴隷であり、イタリア人の農民、大衆に広がらなかった。
  • スパルタクスなど反乱の首脳部はイタリアで政権を樹立するのではなく、アルプスを越えるか、イタリア半島南端から海路とるかして、祖国帰還によって解放されようとした。反乱奴隷の一部にはローマを攻撃して政権を奪取しようと考えた者もいたが、それは少数だった。

参考 スパルタクス蜂起の歴史的限界

 土井正興氏は、結論的な部分で、次のように言っている。
(引用)まさに、奴隷は、敗れるべくして敗れ去ったのである。当時の奴隷制帝国ローマにあって、奴隷制的生産様式はまだ発展の途上にあった。それに代わるべき新しいウクラードが生み出される客観的条件は、まだ未成熟であった。……一般的な、当時の奴隷がおかれた条件からみて、奴隷がきわめて狭い視野しかもたず、自己の運命に忍従する傾向が強く、自分がおかれた状況を客観的に認識することができず、まして、奴隷制社会を廃棄し、新しい社会をつくり出そうとする目的意識的なプログラムをもてるような客観的・主体的条件が全くなかったことはいうまでもないだろう。<土井正興『スパルタクスの蜂起』1973(新版は1988)青木書店 p.213>
 このような条件のもと、スパルタクスたち奴隷は、イタリア脱出=祖国帰還か、しからずんば死か、という二者択一の道しかなかった。

スパルタクス蜂起が残したもの

 以上のような条件のもとで戦われたスパルタクス蜂起は、歴史的必然として敗北したが、その後の歴史に何を残したのだろうか。もともと敗れることが必然であったなら、「むだな、むなしいものであった」のではないか、という素朴な疑問に答えて、土井氏の指摘するスパルタクス蜂起の世界史的意義について見てみよう。
  • コロヌス制への道筋 奴隷蜂起によって、奴隷に対する扱いが、徐々にではあるが緩和される契機となった。それまでの奴隷を「ものいう道具」としてだけ見るのではなく、家庭を持って土地を小作するコロヌスに進化する。「こうした意味では、蜂起そのものは、敗北したが、奴隷の闘争は大局的には勝ったのであり、それが生産力の発展、生産関係の変化に一定の影響を与えたことは否定することはできないであろう。」<土井『同上書』 p.222>
  • 共和政から帝政への転換 スパルタクス蜂起で明らかになったローマ共和政の矛盾は、元老院という貴族支配を残したまま、私兵集団を要した有力者による恣意的な統治が、事態を悪化させたことであった。その矛盾を克服する過程が、二度にわたる三頭政治を経て、権力の集中と中央集権官僚国家への転換であった。その克服の上に成立したのがアウグストゥスによる元首政という政体であった。
  • 民主主義の源流としての意味 奴隷反乱や反ローマ闘争が抑圧されたところに成立した「ローマの平和」は、被抑圧民に深い絶望を与えるものであった。しかし、あらたな「自由と平等」を求める状況が生まれる。奴隷・下層民にイエス=キリストの教え(原始キリスト教)が急速に普及する。「スパルタクス蜂起は、階級社会の成立によって、被抑圧階級にとって奪われた原始的で自然発生的な民主主義を回復しようとしたものであり、その後の、自由と平等を求め、民主主義を求める被抑圧階級の運動の一つの起点を成していると考えるべきであろう。」<土井『同上書』 p.232>