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ダキア

2世紀の初めローマ帝国のトラヤヌス帝が遠征、属州とした。ドナウ川以北の現在のルーマニアにあたる。

 ローマ帝国の全盛期、五賢帝の一人とされるトラヤヌス帝は、2世紀の初め、2度にわたりドナウ川を越えてダキア地方に遠征、征服して属州とした。 → ダキアの位置

ダキアの抵抗

 ドナウ川の北側に拡がる広範な地域、現在のルーマニアにあたる一帯はダキア地方と言われていた。ダキア人はトラキア系の民族で、トランシルヴァニア平原とその周辺で活動し、ローマ帝国とドナウ川を挟んで対峙するようになった。ウェスパシアヌス帝の時には条約を締結し講和したが、85年に条約を破って南のローマの属州モエシアに侵入し、ローマの総督を殺害した。ドミティアヌス帝は大軍を派遣したが、ダキア人を率いたデケバルス王の反抗に遭い、かえって軍旗を奪われるという敗北を喫し、89年に講和が成立した。

トラヤヌスによる征服

 ダキアはローマの保護国となったが、デケバルス王はローマの技術を取り入れながら国力の充実に努め、むしろローマの脅威となっていた。トラヤヌスはダキア征服を果たそうと、101年に自ら遠征軍を従えてダキアに侵入した。この第一次ダキア戦争は翌年まで戦闘が続き、ついにダキアのゲテバルス王が和を乞い、服従した。このときトラヤヌスはドナウ川に20本の橋脚を持つ幅18mの橋を架けたという。
 しかし、105年にゲテバルスは和約を破って反ローマの行動に出たため、トラヤヌスは再び親征した。この第2次ダキア戦争は106年にゲテバルス王の戦死でトラヤヌスの勝利に終わり、ダキアはローマの属州となった。ダキアはローマ帝国にとって久しい新しい領土であり、唯一のドナウ川以北の属州となった。ゲルマニアやサルマティア地方の異種族の反ローマ行動に対する抑えの意味があった。

属州ダキア

 ダキア人の首都サルミゼゲドゥサはローマ軍に破壊され、その西方に新たな都市がトラヤヌスに因んでコロニア・ウルピアナ・トラヤナが植民市として建設され、属州の中心となった。属州ダキアはその後2世紀後半までおおむね平穏な状態が続いたが、ダキアを属州にしたことでローマ帝国の防衛線が延び、またその比重がライン川方面からドナウ川方面に移り、後に手薄になったライン方面の防衛に問題が生じることとなる。<南川高志『ローマの五賢帝――「輝ける世紀」の虚像と実像』1998 初刊 2014 講談社学術文庫再刊 p.99-101>
 トラヤヌス帝はローマの中心部に広大な「トラヤヌスの広場(フォルム)」を建造し、そこにダキア遠征の勝利を記念する高さ38mの石柱を建てた。現在もローマに残るトラヤヌスの戦勝記念柱にはトラヤヌスのダキア遠征が詳しく浮き彫りされており、当時のローマ軍の様子、戦闘方法などを知る上での詳細な史料となっている。
 なおトラヤヌス帝の遠征活動は、東方のパルティアに対しても行われ、この時代はローマ帝国領が最大となった。<クリス・スカー/吉村忠典監修/矢羽野薫訳『ローマ帝国-地図で読む世界の歴史』1998 河出書房新社 p.58>
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