トラヤヌス
2世紀の初め五賢帝の2番目の皇帝。ダキアとパルティアに遠征し、ローマ帝国の領土を最大とした。
ローマ帝国領最大に
トラヤヌス戦勝柱
トラヤヌスは内政では独断的な行動を慎み、イタリア出身の旧来の元老院議員も排除することなくその意を尊重し、一方でイタリア以外の属州出身の騎士階級から元老院議員となった新興勢力も登用するなど、新旧勢力の均衡を図った。またその努力をもっぱら外征に向け、北方のドナウ川以北のダキアと東方のパルティアに対する征服活動を成功させ、帝国領土を最大に拡大した。非公式ながら「最良の皇帝」(ラテン語でオプティウム・プリンケプス)とも呼ばれている。
ネルウァの養子となる
ネルウァ帝は97年10月にローマのユピテル神殿で、当時属州上部ゲルマニアの総督であったトラヤヌスを養子にすると宣言した。ローマ皇帝位が養子に継承された例は多いが、ネルウァとトラヤヌスは親戚関係もなく血はつながっていない。なぜトラヤヌスが養子に選ばれたか、については古来様々な説が提出されており、一般に人物的にすぐれたトラヤヌスを養子という形で次期皇帝に指名したネルウァの判断が称賛されている。しかし、実際には元老院と皇帝周辺の官僚の対立、さらに軍の力などの複雑な対立関係の中で、トラヤヌスが最も皇帝としてバランスのよい立場にあったことが考えられ、結果的にトラヤヌスの正常な判断力(五賢帝と言われる皇帝以外の皇帝にはいかに性格異常な人物が多いことか)を持つ人物だったことが安定につながったと言えるようだ。<南川高志『ローマの五賢帝――「輝ける世紀」の虚像と実像』1998 初刊 2014 講談社学術文庫再刊 p.73~ がくわしく論じているので参照して下さい。>ダキア戦争
ドナウ川の北側に広がるダキア(現在のルーマニア)は、ローマの保護国であったが次第に国力を増強させ、反抗するようになっていた。トラヤヌスは101年、自ら大軍を率いてドナウを越えて軍事行動を行い、いったん制圧し服従させた。105年、再び遠征を行い、106年までに勝利をおさめ、その地を属州ダキアとして帝国領に組み入れた。トラヤヌスの戦勝記念柱 ダキア戦争に勝利したトラヤヌスは、掠奪と獲得した奴隷を売却して巨額の富を得た。112年には、その富を投じてローマに広大なフォルムと市場を建設し、さらに元老院はトラヤヌスの勝利を記念する記念柱(右図)を建設した。トラヤヌスの戦勝記念柱には、らせん状に彫られたレリーフに、ダキア戦争の詳細なようすが描かれており、トラヤヌス時代のローマ軍の装備や戦闘の様子を伝える貴重な史料となっている。<クリス・スカー/吉村忠典監修/矢羽野薫訳『ローマ帝国-地図で読む世界の歴史』1998 河出書房新社 p.58> → ローマ帝国の軍隊
パルティア遠征
さらに114年から、すでに60歳を超えていたが、パルティアがローマの保護国アルメニアに侵攻したので、それを撃退するため東方遠征に出発、115年に都クテシフォンを占領し、さらに116年には、メソポタミア南部まで進出し、その支配はペルシア湾岸まで到達した。このトラヤヌス帝の遠征によって、ローマ帝国の領土が最大となり、最も東に及んだ。しかしこの広大な領土を維持することは困難であり、116年中にメソポタミア南部で反乱が起こり、すぐに放棄せざるを得なくなった。さらにトラヤヌスは老齢のために征服地にとどまることはできず、ローマにもどる途中、117年、セリーノで64歳の生涯を終えた。
トラヤヌスのローマ造営
トラヤヌスは歴代の皇帝と同じように、首都ローマの都市機能を整備し、また外征の勝利を記念して権威を高めるための建造物を造った。ローマの公共広場(フォーラム)にトラヤヌス広場を設け、その中心に「トラヤヌスの円柱(戦勝記念柱=右図)」を建てて、ダキア遠征の勝利を記念した。また、大きな公共浴場(トラヤヌス浴場)を建設し、そのためにローマの水道を整備した。また建設以来500年経っていたアッピア街道を修築した。参考 養子皇帝の疑惑
117年、トラヤヌスが遠征先で急病になったとき、実子はなく、また養子も指名していなかった。その死の床で当時シリア総督をしていた従兄弟の子のハドリアヌスを急いで養子にした(いわゆる末期養子)。ハドリアヌスはトラヤヌスの死の報せとともに麾下の軍隊に皇帝と宣言され、元老院もそれを承認した。臨終のトラヤヌスがハドリアヌスを養子にしたという証言は皇后プロティナと近衛隊長のアッティアヌスだけだったが、この二人はかねてからハドリアヌスを支援していた人物であったので、当時から疑わしいとみられていた。このようにハドリアヌスの皇帝としての正当性には疑惑があったことを背景に、新帝ハドリアヌスの周辺には不穏な事件が続くこととなった。後世には養子を次期皇帝にするということが五賢帝時代の良風とされ、現在もそのような見方があるが、実際には平穏に行われたわけではない。<南川高志『前掲書』p.127-129>