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属州/プロヴィンキア

ローマが征服活動によってイタリア半島外の地中海世界各地に獲得した領土。総督が徴税請負人を通じてきびしく搾取し、ローマの繁栄をもたらした。属州の成立は、都市国家としてのローマが、地中海世界を支配する「帝国」となったことを意味する。同時に属州の拡大はローマ共和政をささえた中下層農民を没落させ、帝政に移行させる要因となった。

 ローマ共和政の時代、第1回ポエニ戦争で獲得したシチリアが最初の属州。ついでコルシカ島サルデーニャ島を合わせて第2の属州とした。属州はプロヴィンキアという。現在の南フランスをプロヴァンスというのは、ここがかつてローマの属州だったからである。
 属州には総督(ローマ)(知事ともいう)がおかれ、元老院から有力者が任命されてその統治に当たり、「十分の一税」という租税を徴収した。その下で実際に徴税にあたった徴税請負人は総督に請け負った税額よりも多くの税を徴収し、その差額を総督が着服するという方法で私腹を肥やし、大きな富を獲得するようになり、ローマの有力者の利権の対象となっていった。
 また属州からは奴隷と大量の安価な穀物がローマ本土にもたらされた。ローマの奴隷制と共和政を支えることとなった。それだけに属州統治はローマにとって重要な課題となり、またその拡大がローマの社会と政治のあり方を大きく変えることになる。

参考 シチリア島の属州化の意味

 ローマで属州のことをプロヴィンキアというが、このことばははじめは空間的な領土を意味するのではなく、統治するために派遣される任務を意味していた(後述)。第1回ポエニ戦争で敗れたカルタゴが前241年にシチリアの支配を放棄したが、その時点ですぐに属州の統治機構ができたわけではない。シチリアが属州となったのは、前227年に、総督がおかれた時とするのが一般的だが、これも厳密には法務官の数が2名から4名に増員され、増えた2名がそれぞれシチリアとコルシカ・サルディニアに送られたことを指しており、総督という機関と属州の統治機構ができあがったわけではない。これらの地に法務官が再び派遣されるのは第2次ポエニ戦争が勃発した前218年のことであり、属州・総督が整備されるのもそれ以降であると考えられる。この時期の属州支配の実態は分からないことが多く、シチリアとコルシカ・サルディニアが属州となったことでローマが「帝国」となったということはできない。海外領土統治機構としての属州が明確になるのは、前2世紀初頭のイベリア半島に二つの属州を置いてからであるので、その時期がローマ「帝国」誕生の時期と考えられる。<宮嵜麻子『ローマ帝国の誕生』2024 講談社現代新書 p.82-96 以下、その要約> → ローマ帝国の成立

属州ヒスパニアの成立

 第2回ポエニ戦争(前218~前201年)でスキピオの率いるローマ軍がイベリア半島に侵攻してカルタゴ軍と戦い、イベリア人も戦闘に巻き込まれた。この戦いに勝利したローマはカルタゴ軍のイベリア半島からの撤退などを講和の条件にしたので、戦後、ローマの支配がイベリア半島に及ぶことになった。ローマはすでに前205年にローマはイベリア半島に属州ヒスパニアを置いていたが、前197年に東部の「キテリオル・ヒスパニア」と西部の「ウルテリオル・ヒスパニア」の二つの属州にわけ、それぞれに法務官を派遣した。これ以降、イベリア半島には毎年、法務官(ないしは執政官)が派遣されるようになり、命令権を行使する(それをプロヴィンキアといった)ことになったので、この状態をもって属州ヒスパニアが設置されたといえる。しかし、この時点ではその統治体制がどのようなものであったか、またイベリア人がそれをどう受け止めたか(属州と意識したか)はまだ明らかではない。<宮嵜『前掲書』 p.120-124>
属州統治の祖型 前197年の属州設置は、イベリアで大規模な反ローマ蜂起があったことへの対応だった。派遣されたのは執政官カトー(大カトー)だった。大カトーは1年半ほどで反乱鎮圧に厳しくあたり、現地民から金銭や鉄、銀を収奪しローマに凱旋した。ついでセンプロニウス=グラックスという将軍が属州統治にあたった。この人物は、グラックス兄弟の改革で知られる二人の父親であった。法務官であったグラックスは前180年から178年まで属州ヒスパニア・キテリオルで総督として反乱鎮圧を続け、鎮圧後、現地部族を「ローマ人の友」として和平条約を結んでいった。その条約は、属州民に共同体としての存在を認めると同時に、毎年、税を徴収すること、ローマに人的資源を供出すること、などの義務を定めていた。このような保護とそれに対する義務を明示した関係が、後の属州統治体制の祖型となった。グラックスは前178年にエブロ河上流にケイトイベリア人のための居住地グラックリスを建設した。
ラテン権の付与 また、リウィウスが伝えるところにによると、前171年にヒスパニアからの使者が元老院を訪れ、ローマ軍兵士と現地女性の間に生まれた子孫4000人のために都市を与えてくれ、と訴えがあった。元老院はその訴えは正当であるとして、ただちに属州ウルテリオルの都市カルティアの一部を与えたという。さらに元老院はこのカルティアに「ラテン権」を与えた。ラテン権とは、かつてのローマが同じラテン人の住むラティウムの諸都市に対してローマに服属した場合に与えられるもので、ローマ市民権に準ずる権利として与えるものである。ラテン人の都市以外にラテン権が与えられたのは初めてのことであり、属州の都市にラテン権が与えられたことは重要な意味がある。
コルドバの建設   ローマは、属州ヒスパニア・ウルテリオルの内陸にコルドバ(ラテン語ではコルドゥバ)を建設した。ストラボンはこの居住地には「最初からローマ人と先住民のなかから選ばれた人々が定住した(『地理』第3章第2節)」といっている。コルドバは最初からローマ人が定住した最初の居住地である可能性が高い。コルドバにはイベリア人も住んでいおり、カルティアと同様、イベリア人とローマ人の共生が可能になっていた。このような共生が、ローマの属州支配を可能にした前提であり、前2世紀前半にはそのような状況が進んだものと思われる。しかし、その世紀の後半になると、イベリア半島では「ルシタニア戦争」と「ケルトイベリア戦争」という二つの大きな戦争が勃発する。
ルシタニア戦争とケルトイベリア戦争 前154年~前138年、イベリア半島南西部のルシタニア(現在のポルトガルを含む地域)ではウァリアトゥスが指導して8年間もローマ兵と戦い、ウァリアトゥスは今もスペイン・ポルトガル両国では英雄として讃えられている。またイベリア半島中央部のケルトイベリアでもケルト=イベリア人(ケルト系の先住民)が小スキピオ率いるローマ軍と1年半にわたるヌマンティアの籠城戦を戦った。

属州マケドニアの成立

 地中海東方のヘレニズム世界もローマの権威を無視できない状況に次第に追い込まれていた。さらに前2世紀中葉には、ローマによる事実上の支配がヘレニズム世界を覆うこととなった。ヘレニズム国家の一角であったアンティゴノス朝マケドニアは、マケドニア戦争の最終的な決戦となった前168年ピュドナの戦いで大敗して滅亡した。その時はその地には4つの共和国が置かれたが、その後再起しようとした残存勢力を鎮圧した後、前146年にこの地を属州マケドニアとした。ギリシア本土の都市国家もアイトリア同盟・アカイア同盟などに依拠して政治的自立性を維持していたが、同じく前146年にアカイア同盟の盟主コリントがローマに徹底的に破壊され(アカイア戦争)、同じ前146年、地中海西方では第3回ポエニ戦争によってカルタゴは破壊され、属州アフリカとされた。

属州の拡大

参考 属州の総体をローマ帝国とする見解

(引用)属州という法制度的な支配の形態に、上下の関係という現実が追いつくなか、ローマはもはや地中海各地を制圧することを躊躇せず、各地への属州設置が推進されはじめたのである。そこから、「属州の総体」としてのローマ帝国は出発する。つまり、ローマ帝国は前2世紀中葉頃に誕生したと、私は考えている。<宮嵜『前掲書』 p.229>
 この説に従えば、ローマ帝国の誕生は前2世紀中葉となり、特に前146年の属州マケドニアとアフリカの成立が重視されることになる。一般的に、ローマ帝国はアウグストゥスの皇帝即位の前27年とされることが多いが、その見解は共和政と帝政の違いに力点をおいている。「帝国」を制度的に見るよりも、実態として広範囲な異民族、異文化圏を統合的に支配する国家、として見れば、地中海世界に対する属州支配の成立を以てローマ帝国は誕生した、とする説となる。しかし、属州体制の成立を結果としてより、原因とみるならば、次にまとめる従来の「ローマ帝国」観も依然として説得力があるように思える。

属州の拡大の影響

 拡大された属州からは、奴隷と穀物が大量にローマ国内にもたらされた。いずれも戦勝によって獲得した海外領土であり、大量の捕虜は奴隷としてローマ本国に送られ、また属州からは穀物が租税として徴収され、ローマ本国の市民の食糧とされていた。奴隷と穀物の大量流入とともに均質な市民から構成されていたローマ共和政の原則は変質し、中小農民が没落して、奴隷労働による大土地経営であるラティフンディアが広がった。富を蓄えた有力者は更に属州の徴税請負人としても力と富を蓄え、騎士(エクイテス)といわれる新たな支配層を形成していった。このような背景から、ローマは内乱の1世紀を経てローマ帝国に移行していった。
 しかし、紀元後2世紀までにはローマ帝国の地中海支配が完成してパックス=ロマーナが実現すると、属州の拡大は終わりを告げ、新たな奴隷の供給はなくなり、大土地所有制からコロナトゥスへと移行し、奴隷に依存したローマ社会も大きく変動することとなる。
 ローマ帝国の存続した間、属州は帝国を支える穀物生産地などとして維持されるとともに、ローマ文化が帝国領内全域におよぶこととなり、現在も属州であった各地にローマ時代の遺跡が遺されている。一方でキリスト教など外来の文化も属州を経てローマに浸透していった。
 4世紀末のローマ帝国の分割などから帝国の弱体化は次第に進み、北方からのゲルマン人と、東方からのイスラーム教勢力などが属州に侵入し、ローマ帝国の支配領域は縮小していくこととなる。

参考 プロヴィンキアの意味

(引用)ふつうわれわれが属州とよぶプロヴィンキア(英語のプロヴィンスのもとの言葉)とは、もともと権限とか職務範囲とかを意味する。政務官に帰属する特定の権限、およびその軍事的な最高の権限、裁判、行政の権限を意味する包括的な権限=命令権(インペリウム)を行使できる範囲なのである。したがって属州とは、属州長官イコール軍司令官がインペリウムをもって統治する占領地域と言ってもよい。そのため属州は、イタリア半島とはことなり、搾取の対象地域となった。ローマは、属州からのあがり、すなわち税で生きてゆくことになり、ついにはローマ市民は、第三次マケドニア戦争後、ある種の税をのぞき、もうまったく直接税を支払う必要がなくなる。<長谷川博隆『ギリシア・ローマの盛衰―古典古代の市民たち』1993 講談社学術文庫 p.198>

アウグストゥスの属州区分

 前27年、ローマ帝国初代皇帝となったアウグストゥスの時、アウグストゥスと元老院の間で、属州(プロヴィンキア)の全体を二分して管理する取り決めが成立した。それは属州総督のもつ命令権(プロコンスル命令権。属州軍指揮権と属州統治権)を両者で分け、それぞれが属州総督を任命することであった。これによってアウグストゥスは元老院と同等の国政上の権力を得たことになる。分け方は、統治が十分に行われている属州と、十分おこなわれていないか外敵に接している属州の二種類で、前者を元老院、後者をアウグストゥスが分担することになった。具体的にはは次のように区分された。
  1. 主な元老院管轄の属州:ナルボネンシス(南フランス)、バイティカ(イベリア半島南部)、アフリカ、キレナイカ、マケドニア、アカイア、アシアなど
  2. アウグストゥス管理の属州:ガリア(ベルギカ、ルグドゥネンシス、アクィタニア)、ヒスパニア(ルシタニア、タラコネンシス)、サルデーニャ、ダルマチア、シリア、キリキアなど
  3. 特別地域:イタリア=執政官が直接統治  エジプト=アウグストゥス個人が所有する皇帝財産
 ローマ帝国の皇帝権力が強まるに従い、両者の区別は薄くなり、属州は皇帝が管理し、総督を任命するようになっていった。