中原
中国の地域名。中国の殷(商)以降の古代国家が興った黄河中流域を言う。中国を統治するうえでの重要地域として、常に権力の争奪の場とされ、戦争が続いた。
ちゅうげん。黄河は一般に上流を砂漠の広がるオルドス地方、中流を大きく湾曲して東に方向を変え、平野部に流れ出た付近を中流、山東省から河口に至る付近を下流とする。特に黄河中流域は新石器文化が形成されたのを初め、最初の王朝国家殷(商)が現れ、それ以後も洛陽を中心に中国の政治文化の中心地の一つであった。西の渭水流域を関中といい、その地を拠点とした周時代以降は、黄河中流域は「中原」といわれて天下に覇を唱える諸侯が争奪戦を展開するところとなった。
「中原」とおされた範囲は次第に広がり、南北朝時代には黄河下流域も含むようになった。さらに長江流域の江南の開発が進むと、宋代以降は江南に対して華北一帯を中原と言われるようになった。
「中原」とおされた範囲は次第に広がり、南北朝時代には黄河下流域も含むようになった。さらに長江流域の江南の開発が進むと、宋代以降は江南に対して華北一帯を中原と言われるようになった。
「中原に鹿を逐う」
日本でもよく使われる中国の慣用句。正確には「中原(ちゅうげん)還(ま)た鹿を逐(お)う」で、『唐詩選』の五言古詩にある魏徴「述懐」の一句。ここでの「中原」は「天下」を意味し、「鹿」は政権を指している。つまり、政治の主導権を握る、ということで、略して「逐鹿(ちくろく)」ともいう。また政治の世界を「逐鹿界」などともいう。「覇者」、「牛耳を執る」や「鼎の軽重を問う」などと同じく、中国の古代の諸侯が覇を競ったことから生まれた慣用句である。さすがに最近の日本政界で「中原に鹿を逐う」といったら嫌みに聞こえる。蔣介石の「中原大戦」
古代だけでなく、中国史での「中原」は常に覇権をめぐる戦争が続いていた。近・現代においても例外でなく、1928年に北伐を終え中国を統一したはずの国民党蔣介石が、1930年5月から展開した最後の残った有力軍閥閻錫山との決戦も「中原大戦」といっている。これは戦国時代や三国時代と同じような権謀術数をつくしての戦いで、7ヶ月にわたって100万の軍隊が動員され、約30万の死傷者が出た。中原大戦は蔣介石の勝利に終わったが、彼は続いて急成長した共産党軍との内戦に向かう。このような中国の内戦状態を見た日本の関東軍が、中国組みし易とと実行したのが1931年の満州事変だった。<野村浩一『蔣介石と毛沢東』1997 岩波書店 p.92-98>