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殷(商)

現在、存在が明らかにされている中国最古の王朝。本来は商といった。巨大な殷王の地下墓である殷墟が発見されている。前16世紀に黄河中流域を支配した、甲骨文字と青銅器をもつ文明段階の地域王朝であった。前11世紀に周に交替する易姓革命で滅んだ。

 前16世紀中ごろ、殷の湯王が、の暴君桀を滅ぼし、王朝を建てた(このような武力による政権交代を、放伐という)。都は河南省の二里崗文化(二里頭文化に続く青銅器文化の段階)に属する偃師商城がそれに当たると考えられている。以後、何度か遷都を繰り返し、次第に黄河中流中原に支配権を拡大していった。前14世紀の19代の王盤庚のとき、河南省安陽県の殷墟の地に遷都し、以後最後の紂王が前11世紀に周に倒されるまで続く。甲骨文字によるとこの都は大邑商と言われ、殷も当時はといった。殷は高度な青銅器製造技術を持ち、甲骨文字を使用した。
注意 殷と商 日本の世界史教科書ではこの王朝名を「殷」、あるいは「殷(商)」とし、用語集などでは「殷は商とも称した」、あるいは「商は殷の別名」とも説明されているが、現代中国の歴史教科書では、商を正式な国号としている。 → の項を参照

殷王朝

 現在、『史記』などの文献情報が、考古学の発掘調査などによって確かめられ、修正されている。ほぼ認められていることは、次のようなことである。
 紀元前1600年頃、夏王朝の桀王が治世が乱れたので、湯王(成湯ともいう)が立って夏を滅ぼし、殷(当初は商と言った)王朝を建てた。湯王は名臣伊尹いいんの補佐を受けて統治を行い、国は治まった。都ははじめははく(河南省偃師えんし)商城に置かれたが、たびたび遷都され、後期の王の盤庚の時に河南省安陽市の現在、殷墟と言われる所に定着しそれ以降、最後の紂王まで続いた(なお現在では、殷墟は出土した甲骨文からは盤庚より三代後の武丁以後のものとされている)。

邑制国家・神権政治

 殷王朝は、殷王の支配する殷(当時は商と言われた)は一つの都市であり、周辺のと言われる都市国家との連合体を形成しており、その中で最有力であったので大邑と言われた。このような邑の連合体からなる殷王朝の国家形態を邑制国家と定義されている。
 殷王は占卜(うらない)によって政治を行い、歴代の王の霊や神霊に対する祭祀が最も重要な任務とされ、その多分に宗教的な権威による祭政一致を行ったので、その国政のあり方は神権政治であった。また王が占いを行うときに使われたのが甲骨文字であった。
 また殷は青銅器製造技術を独占し、他の都市国家の首長に対して青銅器の祭器を分与することで権威を保っていたと考えられている。ただし、殷王と連合体を組む邑の範囲、つまり殷の勢力範囲をどもまでと見るかについては、華北の相当広い範囲と見る見方と、黄河中流域の狭い範囲とする見解とが対立している。
 殷墟などから甲骨文字や青銅器とともに大量の人骨が見つかっていり、かつては殷王の所有した奴隷の遺体と考えられ、そこから殷代は奴隷制社会であったと考えられていた。現在の中国でもどのように説明されているが、日本などではこれらの人骨は祭祀などの犠牲とされた周辺民族であって奴隷ではないとの理解から、古代中国では奴隷は存在したものの、主要な農業労働力となっていたのではないので奴隷制社会であったことは否定的に見られている。<佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』2018 星海社新書 などによる>

Episode 酒池肉林

 殷王朝の最後の王である紂(ちゅう)王は、中国王朝の歴代支配者の中でもすこぶる評判が悪い。美貌の妃妲己(だっき)を溺愛し、いわゆる「酒池肉林」の贅沢を極め、諫める臣下を「炮烙(ほうらく)の刑」で虐殺するという、暴君ぶりを発揮したとされているからだ。紂はけして無能な天子ではなく、聡明で弁が立ち、行政手腕もあり、知的能力に加えて素手で猛獣と格闘するほどで、まさに鬼に金棒、怖いものなしだった。ところが即位9年目に後宮に入った妲己の美貌に心を奪われた頃から、歯止めのきかない享楽の日々を送ることになった。鹿台という御殿に財宝を集め、犬や馬や珍奇なものをあつめ、沙丘という離宮の庭園には野獣や鳥を放し飼いにした。レジャーランドと化した沙丘に酒を満たした池を造り、樹木に干した肉をひっかけて肉の林にした。そこで裸の男女に鬼ごっこをさせ、自分は妲己を侍らせ、一晩中牛飲馬食をむさぼった。これが「酒池肉林」だ。紂の無道に耐えかねて反旗を翻した諸侯に対して用いられたのは炮烙の刑であった。油を塗った銅の柱を横にして上から吊るし、下から火を焚いて熱くなったところを受刑者に渡らせる。受刑者は滑って火の中に落ち,焼け死んでしまう。などなど、際限のない奢侈と淫虐の果てに、周の武王の率いる諸侯同盟軍に攻められ、追いつめられて鹿台の宝物殿に登り、宝石をちりばめた衣装を身につけて火中に身を投じたという。<井波律子『酒池肉林』1993 講談社現代新書 p.10-14 殷の紂王から始まり、始皇帝から西太后まで次々と繰り返される権力者たちの暴虐、さらに貴族や商人の贅沢など、権力や富の危うさを中国贅沢史という題材で追求している、真面目な本。>

周への交替

 紂王の話は、歴史事実としては怪しい。王朝が交代するときはたいがい前の王朝のことを悪く書くのが中国の歴代王朝の「正史」の書きぶりだからだ。『史記』など中国の史書でも周王朝を理想化する傾向があるので、紂王を一方的に暴虐な王とかたづけることはできないだろう。ただ、500年にわたる王朝権力の中で権力が腐敗の極みに達していただろうことは想像できる。落合淳思氏は『古代中国の虚像と実像』では酒池肉林を史実では無いと断じ、近著『殷』で、後世の歴史書の伝える伝説的な殷王朝像から離れて、同時代史料である甲骨文字から殷王朝の実態を再構成しようとしている。