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中国の殷王朝の都の当時は大邑商といったので、殷の王朝名も商とされた。日本では殷の別称とされることが多いが、現在の中国では商を本来の王朝名としている。

 殷墟が発見され、大量の甲骨文字が解読された結果、殷の時代にはこの地は「商」と言われる都市であったことが判った。また、甲骨文字で「大邑商」とも書かれている。したがって殷王朝後期の都は「商」といわれていたが、当時の殷の人々は「商」を自らの国号としても使っていたようだ。最新の概説書でも「殷は、商という大邑が他の邑を服属させる邑制国家であったので、殷王朝は商王朝とも呼ばれる」とも説明されている。<佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』2018 星海社>
 日本の世界史教科書では、現在でも中国最古の王朝を「殷(商)」としており、山川出版社世界史B用語集でも王朝の名称としては「殷」とし、「商は殷の別称」という扱いである。しかし、中国の中学校酔う歴史教科書では、「商」を正式な王朝名(夏に次いで二番目の)としている。

参考 中国の教科書での商

 中国の中学校酔う歴史教科書では、「紀元前16世紀、黄河下流にあった商の部族がリーダーのとうに率いられ、夏の桀が民心を失った隙に、兵を挙げて夏を攻め」て滅ぼし、湯は商の君主として強大な奴隷制国家を建てたと説明し、さらに次のように言っている。
(引用)商の湯ははくに都を定めた。政治の混乱と水害により、商の前期にはしばしば遷都した。紀元前14世紀になって、商王の盤庚ばんこうが殷に遷都すると、国は安定し始めた。後世の人は商を殷または殷商と呼んでいる。盤庚による殷への遷都ののち、商の統治範囲は拡大しつづけ、当時の世界の大国となった。<小島晋治・並木頼寿監訳『入門中国の歴史 世界の教科書シリーズ 中国中学校歴史教科書』2001 明石書店 p.79>
 これによれば、日本とは逆に、「商」が正式な王朝名で、「殷」は途中で遷都した都の名前であり、殷に遷都してから盛んになったので、後の人が殷または殷商というようになった、という。

商の最初の都 偃師商城

 夏に代わって商を興した湯王が最初に都としたはくとはどこか。殷墟の発掘に続く考古学の課題がその最初の商の都の発掘であった。1983年にその候補地が発掘され、議論の的となった。それは、夏王朝遺跡とされた二里頭遺跡から東に6キロほど離れた、同じ河南省偃師えんし市の二里崗文化(二里頭文化に続く青銅器文化)期に属する城壁・濠をもつ宮殿跡と思われる遺跡の発見であった。
 発掘調査により、全周5500メートルにおよぶ大城(外城)の城壁と濠、城門と道路の遺構、城内南部の宮殿跡が確認された。この遺跡の真ん中に東西に横切って掘られた溝を地元では「尸郷溝しきょうこう」と呼んでおり、『漢書』地理志上に「尸郷は、殷の湯の都する所なり」と一致することから、ここが商の最初の都と考えられるので偃師商城と名つけられた。
 この偃師商城は、1997年に年代決定のための調査が行われ、大城より古い下層から南北1100メートル・東西740メートルの小城(内城)が発見され、それは前1600年頃に建設が開始されたことがわかった。それによって、湯王が二里頭の夏王朝を滅ぼした直後に、現地に残存していた夏の遺民を統治するために小城を応急的に建設し、そこを中核として都城全体を拡張して大城を建設したと想定さた。またそれまでは二里頭遺跡を商の湯王の都とする説が有力であったが、この偃師商城の発見によって、二里頭遺跡が夏王朝の都城であることも中国の学界で広く認められることとなった。<佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』2018 星海社新書 p.68-71>
 ただし、現在も反対する意見もあり、日本では二里頭遺跡が夏王朝の都で有ることを示す甲骨文字の資料が見つかっていないことから、商(殷)に先立つ夏王朝の存在は教科書段階では認められていない。