江南
広い意味では中国の南半分、淮河以南で、長江の流域を言う。東晋・南朝の諸王朝の下で開発が進み、南宋以降は穀物生産の中心地となり、中国経済を支えた。明・清では長江デルタ地帯特産の生糸・絹織物が外国貿易での最重要輸出品となって経済的に繁栄したので、江南は狭い意味で浙江・江蘇・安徽三省にまたがる長江デルタのことを指すようになった。
中国を大きく区分したとき、その南半分、長江の流域を江南という。「江」は長江を意味する。河姆渡遺跡や良渚文化に見られるように、早くから稲作農業が発達しており、最近では長江上流の三星堆の長江文明の存在が注目されている。
江南の開発進む
戦国時代には七雄の一つ楚が有力となり、秦の末期に劉邦と天下を争った項羽も楚の人。三国時代には孫権が呉を建国した。このころから建業を中心に生産力が高まった。この地方の開発が特に進んだのは匈奴に洛陽を追われた晋がこの地に逃れ、建康(建業を改めた)を都に東晋を建ててからである。これ以後、南朝の時代にかけて多数の漢民族が移住し、江南の開発が進んだ。江浙熟すれば天下足る
唐代には安史の乱の混乱も江南には及ばず、安全を求めて漢人の移住が続き、人口が増加した。宋から南宋にかけては長江下流の蘇湖(江浙)地方で米の二期作などが始まり、さらに生産力が上がって中国を支える穀倉地帯となった。この地を支配した元は、隋代に建設された大運河をさらに改修して、豊かな産物を北方に運んだ。そのため、宋~南宋では長江下流の江蘇・浙江(中心都市は蘇州・湖州)は穀物生産の中心地となり、「江浙(蘇湖)熟すれば天下足る」と言われた。また、江浙に近い江西の景徳鎮は陶磁器の一大産地として発展した。南糧北調
元に対する漢民族の反抗もこの地に広がり、元を倒したこの地方出身の朱元璋が建てた明王朝は、江南を根拠に中国を統一した最初(にして最後の)王朝となった。建康を改めた南京は、江南での最初の統一王朝の都となったが、永楽帝は北方経営を重視し、北京に遷都した。明王朝も華北と江南を結ぶ大運河を修築し、江南の穀物などを華北に贈ったので、「南糧北調」という言葉が生まれ、また華北は馬、江南は舟という物資移動の手段の違いから「南船北馬」という言葉も生まれた。湖広熟すれば天下足る
また明後期の15世紀中頃からは、江浙地方では絹織物や綿織物などの手工業が発達し、水田による稲作から、畑での綿花や、蚕のえさの桑の栽培に転換するようになったため、穀物生産の中心地は長江中流の湖広(ここう)地方に移ったため、「湖広熟すれば天下足る」と言われるようになった。長江デルタでの生糸・絹織物の生産
狭い意味の江南地方である江浙地方(江蘇省南部、浙江省北部、安徽省東部の長江デルタ地方)は、古くから生糸・絹織物の産地であったが、特に明後期からはその生産が増加し、日本との勘合貿易や倭寇による密貿易での輸出品として盛んに輸出され、その代価として銀が大量に流入するようになった。16世紀後半からはマカオのポルトガル商人や、フィリピンのマニラでのスペイン商人との取引でも江南の生糸・絹織物は主要な商品となった。太平天国から辛亥革命へ
永楽帝による北京遷都以降、江南は政治的な中心からは外れることとなったが、その後も穀物生産だけでなく、綿織物は南京が、生糸・絹織物では蘇州・杭州が、そして陶磁器では景徳鎮がそれぞれの産業の中心地として栄え、中国経済を支えていった。17世紀に中国東北地方に興った清王朝は、江南の統治に特に留意したが、反清朝の動きはこの地方から始まり、清朝末期の19世紀には太平天国が南京を首都に独立を宣言した。太平天国は鎮圧されたが、江南はその後の孫文や蒋介石の清朝を倒す運動を支えてゆき、辛亥革命ではしばしば革命運動の中心地となり、北京政府を脅かす存在であった。