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呉王夫差

春秋時代の江南の新興国呉の王。五覇の一人ともされる。越王と激しく争い最後は攻め滅ぼされた。「臥薪」の故事で有名。

 前5世紀の初め、春秋時代の中国の長江下流域の有力諸侯であった呉の君主。呉国の都城は現在の蘇州であり、豊かな生産力のある地域であった。父の闔閭(こうりょ)に続き、近隣の有力諸侯越と戦い、前494年には現在の紹興附近にいた越王勾践を破った。父の闔閭のかわりに春秋の五覇の一人とされることもある。
 呉は司馬遷の『史記』によれば、周の初代文王(昌)の兄の太伯と仲雍が、父が昌に家督を継がせようと考えていること知って、野心のないことを示すために「文身断髪」(入れ墨をして髪を切ること。いずれも南方の蛮人の風俗)して江南の地に逃れた。それが呉の始まりという。その子孫は周王の化外の地にあるとして王を名乗った。春秋末期に現れた闔閭は兄王を暗殺して王位を奪い、楚から亡命してきた伍子胥(ごししょ)、兵法で名高い孫武らを登用して武力を整え、まず楚を伐った。楚の平王に怨みを持つ伍子胥はこの時、平王の死骸に鞭打った(「屍(しかばね)に鞭打つ」の故事)。呉王夫差はさらに軍を北上させ、中原の諸侯を集めて会盟を主催したが、留守にした呉の都を越に攻められたため会盟を維持できず、帰国した。

Episode 呉越の戦いと臥薪嘗胆

 呉は江南地方の覇権をめぐって、さらに南方にあって急速に力をつけてきた越と激しく争うようになった。「呉越同舟」という成句は、呉人と越人が常に対立したことから生まれた。呉王闔閭は越王勾践を伐とうとして決戦を挑んだが、越王が罪人を繰り出し、呉軍の前で大声で叫ばせながら自害させると、呉軍がそれに見とれている間に急襲されて敗れてしまった。闔閭はわが子の夫差に、越に対する怨みを忘れるなと遺言して死んだ。呉王夫差は毎夜薪の上に寝て父の仇を忘れないようにした(臥薪) 。前494年、呉王夫差は越を攻め、会稽の戦いでそれを破った。賄賂を払って命をつないだ越王勾践は、食事の時に常に肝をなめて(嘗胆)、「会稽の恥」を忘れないようにした。越は賢人范蠡(はんれい)を用いて国力を回復し、ついに前473年、呉をせめて夫差を自決させ、会稽の恥をそそいだ。ここから「臥薪嘗胆」という故事が生まれた。『十八史略』ではこのように臥薪を呉王夫差、嘗胆を越王勾践のこととしているが、いずれも越王勾践のこととしているものもある。
 呉王夫差と越王勾践の戦いについては、司馬遷『史記』の呉太伯世家と越王勾践世家に詳しい。また、ここで出てくる故事成句について、わかりやすく紹介した書物に井波律子『故事成句でたどる楽しい中国史』(岩波ジュニア新書 2004)がある。

Episode 伍子胥の諫言

 伍子胥は呉王夫差にも仕え、その覇業を助けた。しかし、会稽の戦いで敗れた越王勾践が賄賂を携えて和を請うたとき、それを受け入れようとした夫差を諫め、一気に越を滅ぼすことを勧めた。しかし夫差はそれに従わず、しかも越王から送られた美女の西施に入れあげ政治を疎かにする始末。伍子胥がそれを諫めるとますます彼をしりぞけるようになり、伍子胥は讒言によって死を賜ることとなった。伍子胥は「わたしの墓に梓の木を植え、それで呉王の棺を作れ。かならずわが眼をえぐって呉の東門に掲げよ。その眼で越兵の入城するのを見よう」と壮絶な言葉を残して自決した。