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越王勾践

中国の春秋時代の越の王。呉王と激しく戦い、一時は覇を唱えた。「嘗胆」の故事で有名。

 前5世紀の初め、春秋時代の中国の長江下流域の有力国であった越の君主。呉と越の対立は「呉越同舟」(仲の悪い者が同席しているという意味)の故事成句にもなっている。若くして即位し、呉王闔閭の攻撃を受けてそれを破ったが、闔閭の子の呉王夫差との前494年会稽の戦いでは敗れた。呉王夫差は父の仇を忘れないために毎夜薪の上に寝たのが臥薪、越王勾践が夫差に敗れた屈辱を忘れないようにするために胆をなめたのが嘗胆、あわせて「臥薪嘗胆」という故事成句が出来た。なお、臥薪と嘗胆のいずれも越王勾践の故事とすることもある。「臥薪嘗胆」は悔しいお思いをじっと我慢するという意味で良く使われ、近代に入って日清戦争で勝利した日本が下関条約で獲得した遼東半島を三国干渉によって清に返還しなければならなくなったとき、この故事が声高に叫ばれた。
 最終的には家臣の范蠡の意見に従い富国強兵に努めた越王勾践が前473年に呉を攻めて夫差を自決に追い込み、勝利した。さらに越王勾践は勢力を北上させ、一時は周王を奉じて諸侯を召集し、会盟を主催して覇を唱えた。そこで春秋の五覇の一人とされている。しかし、その覇権は長く続かず、勾践の死後、越は次第に振るわなくなり、前334年にによって滅ぼされる。

Episode 天、勾践を空しゅうする莫れ。 時に范蠡、無きにしも非ず。

 日本の南北朝時代、南朝方の武士児島高徳は、隠岐に流される途中の後醍醐天皇を救出しようとしたが失敗し、山中の桜の木に「天莫空勾践 時非無范蠡」の十字を彫りつけた。これは、「必ずや越王勾践のときの范蠡のような忠臣が現れます、あきらめないでください」、と言う意味。『太平記』にあるこの話によって児島高徳は尊皇の忠臣として戦前の日本ではよく知られていた。ここで出てくる范蠡(はんれい)は実在の人物で春秋時代の越王勾践に仕えた家臣。会稽の戦いで呉王夫差に敗れた勾践を励まし、再起させた人物。しかし、児島高徳の方はその実在も疑われている。

Episode 范蠡の生き方

 范蠡は越王勾践に仕え、その参謀として越王が「会稽の恥」をそそいで呉を滅ぼし、覇を唱えるまで大きな功があったが、しかし彼は単純な忠臣ではなかった。越王が覇者となったのを見届けると范蠡は、「狡兎死して走狗煮らる」(すばしこい兎を殺し尽くせば、猟に用いられていた犬は不用となって殺され煮られてしまう、の意味)という言葉を残して、その地位を辞し、サッと姿を消してしまった。権力を握った者が重臣を排除する危険を察知し、国外逃亡したのだった。越から姿を消した范蠡は商人に姿を変え斉に現れ、商売で成功して陶朱公といわれる富豪になったという。おまけにかつて呉王夫差に差し出した美女の西施は実は范蠡の愛人であったので、手に手を取って呉から離れてともに暮らしたという話もある。なかなかの食わせ者です。<司馬遷『史記』越王勾践世家 小竹文夫・武夫訳 筑摩学芸文庫 p.291-300/井波律子『故事成句でたどる楽しい中国史』岩波ジュニア新書 2004 p.41-42>