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秦の穆公

中国の春秋時代の秦の君主。秦の基礎を築き、春秋の五覇の一人ともされる。

 春秋時代の中国の西部、渭水上流地域を拠点としたの君主(在位前659年~前621)。百里奚や蹇叔などの有能な家臣の補佐によって内政、軍制を整え、後の秦の繁栄の基礎を作った。当時は東に隣接するとの関係が深く、晋の内紛にはたびたび介入した。その公子重耳を保護し、後援して晋の君主に立て、それが晋の文公となった。文公の死後は晋とのあいだは険悪となり、一度は大敗したが最終的には勝利して優勢を保った。また、周辺の遊牧諸侯に対する征服活動を展開して西方の覇者と称した。後には秦の穆公を春秋の五覇に加える説も出るが、穆公は中原には進出しておらず、完全な覇者とは言い切れない。

Episode 「恨み骨髄に徹す」

 穆公が百里奚と蹇叔が諫めるのを無視して晋の襄公(文公の子)と戦って大敗し、派遣した三将軍が捕虜になってしまった。晋の襄公は三将軍を斬ろうとしたが、その母、つまり文公の夫人は秦の穆公の娘であったので、命乞いをした。「穆公は三人を恨むこと骨髄に徹しています。どうか三人を秦に帰し、秦の君に思う存分に煮殺させてください」という母の言葉に従い、襄公は三人を秦に帰した。三人が帰ると穆公は喪服を着て郊外に出迎え、老臣たちの忠言を聴かずに出兵したわたしが悪かったと泣いて謝り、三人を許した。この故事がもとになり、徹底的に人を恨むことを「恨み骨髄に徹す(または入る)」という句が生まれた。 <司馬遷『史記』1 秦本紀 小竹文夫・武夫訳 ちくま学芸文庫 p.114/井波律子『故事成句でたどる楽しい中国史』岩波ジュニア新書 2004 p.38>
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司馬遷
『史記』1 本紀
小竹文夫・武夫訳
1995 ちくま学芸文庫