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宋の襄公

中国の春秋時代の宋の君主。春秋の五覇の一人ともされる。

 宋は春秋時代の中国の黄河の中流、中原にあった小国で、かつての殷王朝の子孫がこの地に封じられたものという。宋の襄公(在位651~前637年)は斉の桓公晋の文公などと同時期の君主であったが、大国の斉や晋に互して中原で覇を唱えようとした。桓公の死後の斉の混乱に乗じて覇を唱えようとしたが、南方の楚が反発して攻め上り、襄公は泓水(こうすい)の戦いで敗れ、その時の傷がもとで死んだ。宋の襄公を春秋の五覇に加える説もあるが、実際には覇者となったことはない。<司馬遷『史記』3 宋微子世家 小竹文夫・武夫訳 ちくま学芸文庫 p.145~>

Episode 「宋襄の仁」

 宋の襄王が泓水の戦いで楚軍を迎えた時の話が『春秋左氏伝』に出てくる。
(引用)冬十一月己巳朔の日、宋公は楚の人と泓水のほとりで会戦した。軍が隊列を整え終わったのに、楚軍はまだ泓水を渡り終わっていない。司馬(軍師)が「あちらは多勢、こちらは寡勢。渡り終わらぬうちに攻撃をかけましょう」と言うと、公は「だめだ」と言う。楚軍は渡り終わったが、まだ隊列を整えていない。司馬がまた督促すると、公は「まだだめだ」。楚軍が陣形を整え終わってから攻撃をかけると、宋軍は大敗を喫した。公は股に矢傷を負い、近衛の士は全員殺された。国人たちがこぞって公の敗戦の責任を咎めると、公は言った。「君子は負傷者を重ねて傷つけず、白髪まじりの者を捕虜にせぬものだ。古の戦法では、険隘に乗じて奇襲はせぬことになっている。わたくしは亡国(殷)の子孫であるはあるが、隊列が整わぬ敵に攻撃をかけるようなことはせぬ」。<『春秋左氏伝』上 小倉芳彦訳 岩波文庫 p.250>
この故事から、無用な情けをかけることを「宋襄の仁」というようになった。