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斉の桓公

春秋時代の山東を治めた斉の王。前679年、会盟して最初に覇を唱え、春秋の五覇の一人とされる。

 春秋時代は、現在の山東省にの功臣太公望呂尚が諸侯として封じられてはじまった国。最近、その都城あとが発掘され、繁栄の様子がわかってきた。前7世紀ごろ、斉の桓公は、名臣の管仲を登用して商業を保護し、富国強兵に努め、赤狄などの異民族の侵入を退けて、最も強勢となった。前679年、宋・陳・衛・鄭の諸侯と会盟し、初めて覇を唱えた。さらに前651年、他の諸侯と会盟(葵丘の会)し南方の楚の北進を抑えた。このように本来、周王がすべきことをそれに代わって行った者が覇者と言われるようになり、斉の桓公がその春秋の五覇の最初にかぞえられている。しかしその死後は、子どもたちの間で継承権をめぐる争いが生じたため葬儀が行われず、桓公の遺体は65日間も放置され、蛆が戸外にまではい出すほどであった。
 この争乱のために斉は急速に弱体化し、家臣の田氏が台頭して実権を奪われてしまう。また覇権は晋の文公に移ることになる。桓公に関しては、司馬遷の『史記』の斉大公世家に詳しく記されている。

Episode 「管鮑の交わり」

 春秋時代に最初に覇を唱えた斉の桓公を支えた名宰相が管仲(かんちゅう)である。管仲は斉の王子糾に仕えていたが、糾の弟の小白が公位を継いで桓公となったことに反発して反乱を起こし、糾は敗死した。管仲もとらえられて処罰されることとなったが、桓公に仕えていた幼なじみの鮑叔がとりなして許され、管仲も桓公に仕えることとなった。鮑叔(ほうしゅく)はかつて、貧窮していた管仲から何度も欺されたことがあったが、その才能を見抜いて、桓公に推挙したという。このような仲のよい有様を「管鮑(かんぽう)の交わり」という。
 管仲はその後、桓公の宰相にまでなり、その覇業を支えた。『史記』列伝にある管仲の逸話の一つをあげておこう。あるとき桓公は魯の刺客に脅迫され、さきに魯から奪った土地を返すと約束しながら、履行しないでいたのに、管仲は禍を転じて福にしようと、桓公に説いて約束を実行させ、これによって諸侯を斉に心服させた。司馬遷はこのことから「与えることこそ、取る手段であると知るのが政治の秘訣である」と言われるのである、と述べている。<司馬遷『史記』5 列伝1 管晏列伝第二 小竹文夫・武夫訳 ちくま学芸文庫 p.17>

Episode 桓公のお茶目な妃

 司馬遷『史記』の世家を読むと、春秋時代の君公の中には乱脈な生活を送ったものがたくさん出てくる。桓公の父である襄公は酒に酔わせて魯の公を殺し、その夫人と密通したのをはじめ、むやみに人を殺し、女色に淫して、しばしば大臣を欺いたという。また桓公も好色で、寵愛した夫人が多く、六人もいた。その中の一人、蔡姫(さいき)には面白い話がある。あるとき「桓公は夫人の蔡姫と船中で戯れた。蔡姫は水練が巧みで、船をうごかして公をゆさぶった。公は恐れてとめたが、蔡姫はやめなかった。桓公は船を下り、怒って蔡姫を実家に帰した。しかしまだ縁は絶たなかった。蔡(姫の実家、南の淮河地方にあった国)のほうも怒って、蔡姫を他に嫁入らせた。桓公はこれを聞いて怒り、蔡を伐とうと出兵した。」桓公を困らせた茶目っ気のある蔡姫、怒りながらも未練たっぷりな桓公。史記の中でも人間らしい女性の出てくるエピソードの一つである。<司馬遷『史記』3 世家上 斉大公世家第二 小竹文夫・武夫訳 ちくま学芸文庫 p.40>