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垓下の戦い

前202年の劉邦と項羽の決戦。項羽軍を取り囲んだ劉邦の漢軍が楚の歌を歌うのを聞いて、項羽は敗北を自覚した。これから「四面楚歌」の故事が生まれた。項羽は垓下から逃れたが間もなく漢軍の追っ手に追い詰められ自殺した。

 がいかのたたかい。漢の劉邦と楚の項羽は、和議を成立させ、それぞれ軍を引くこととしたが、劉邦が一方的に約束を破り、背後から楚軍を攻撃し、ついに項羽の楚軍を垓下(安徽省)に追いつめ包囲した。「四面楚歌」の話はこのときのことである。前202年のこの戦いで、漢の劉邦の優位が確定する。重囲を脱した項羽は故郷の江南を目指したが、長江(揚子江)北岸の烏江で漢軍に追いつかれ、乱戦の中自殺した。垓下は現在の安徽省霊璧県の東南にあたる。

参考 『史記』に見る垓下の戦い

(引用)項王(項羽)の軍は垓下に防壁をつくったが、兵は少なく食はほとんど尽きはてていた。漢(劉邦)軍と諸侯の兵は、これを幾重にも囲んだ。夜、漢軍が四面から楚歌をうたうのを聞くと、項王は大いに驚き、「漢はもはや楚の地をみな取ったのか。なんと楚人の多いことか」と言った。そこで項王は夜中起きあがって、帳中で酒を飲んだ。美人があり、名をといい、いつも幸愛せられて項王に従っていた。また駿馬あり、名をすいといい、いつも項王の愛乗するところであった。項王は悲歌忼慨して自ら
 力は山を抜き 気は世をうも
 時に利あらず 騅かず
 騅の逝かざるは 如何いかんとすべき
 虞や虞や なんじを如何せん
という詩をつくり、うたうこと数回、美人(虞姫)がこれに唱和した。項王の頬には数行の涙が下った。左右の者もみな泣き、誰も頭をあげる者がなかった。<小竹文夫・武夫訳『史記Ⅰ 本紀』 ちくま学芸文庫p.230-231>
 注には、三行目に「威勢廃る。威勢廃れて」の句があったという説と、虞美人が唱和した歌は「楚漢春秋」には「漢兵すでに地を略し、四方楚歌の声、大王意気尽き、賤妾何んそ生にやすいんぜん」として挙げている、としている。  項羽にとって故郷である楚も、すでに劉邦軍に取られてしまったのか、と悲嘆したのだった。ここからまわりがすべて敵に囲まれ孤立無援であることを「四面楚歌」と言うようになった。
司馬遷の項羽評  秦末の混乱の中で起ち、劉邦と覇を競い、一時は権勢をつかみかけたが、垓下の戦いでは「四面楚歌」に直面し、敗れ去った項羽は、自分の敗因を「天の運」に見放されたと嘆いた。その項羽の敗軍の将としての言い分に対し、司馬遷は『史記』項羽本紀の最後に「太史公言う」として手厳しく批評している。太史公とは司馬遷が自らのことを言っている。
(引用) 自ら功伐(戦勝の功)をほこり、私智を振るって(自分の考えをおしすすめて)いにしえを師とせず(歴史に学ばず)、その為すところをもって覇王の業と信じ、力征をもって天下を経営しようとすること五年、ついにその国を滅ぼし、身を東城に歿しながら、なおおのれの非を覚らず自ら責めず、「天がわれを滅ぼすのであって、兵を用いるの罪ではない」としたのは何とあやまりではないだろうか。<小竹文夫・武夫訳『史記Ⅰ 本紀』 ちくま学芸文庫p.235>
 『史記』はたんなる歴史記述ではなく、このような司馬遷の人物評、時代観が随所に見られる。この垓下の戦いでの「四面楚歌」の記述は、項羽が人間の力ではどうすることもできないこと――それを天命といっている――、人間の限界をめぐる敗者の挫折感を読み取ることができるが、一方の勝者であった劉邦については同じく高祖本紀の最後で、臨終に当たって天命に逆らえないことをさとり名医の治療を断ったという記事がある。「項羽とは違い、劉邦の心にあったのは、天に対する畏怖とそこからくる覚悟、達観であろう。」<富谷至『四字熟語の中国史』2012 岩波新書 p.126-四面楚歌――天命をまえに で詳しく論じている。>
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書籍案内

小竹文夫・武夫訳
『史記1 本紀』
1995 ちくま学芸文庫

富谷至
『四字熟語の中国史』
2012 岩波新書

東洋法制史を専門とする筆者(京都大学人文科学研究所教授)が温故知新、臥薪嘗胆、風林火山、蛍雪之功など、馴染み深い四字熟語から中国史を縦横に語る。