漢(前漢)
秦に続く統一王朝で、中国で最初の長期安定した王朝。前202年、劉邦(高祖)が初代皇帝となり郡国制を採用。漢はその後、呉楚七国の乱を鎮圧して基盤を整え、前1世紀の後半の武帝の時に実質的な郡県制による中央集権的な支配権を確立した。武帝は盛んに匈奴などに対する征服活動を行い、周辺に帝国支配を及ぼした。しかし次第に宦官と外戚が実権をふるうようになり、8年に外戚王莽に帝位を奪われ滅亡した。25年、劉秀が復興させたのを後漢というのに対し、こちらを前漢という。
秦・漢帝国の支配領域
高祖は匈奴の冒頓単于との戦いには敗れたが、和平に踏み切って犠牲を抑え、政権の安定に努め、その死後、皇后の呂后が実権を握って混乱したが、五代文帝は寛容な政治で安定を取り戻し、次の六代景帝は皇帝権力の強化をはかったが、前154年に、それに不満な漢の一族や諸侯の反乱である呉楚七国の乱が起こった。漢はその乱を鎮定することによって権力を安定させ、実質的に郡県制による中央集権的な支配を可能視した。
その上で前2世紀末、7代武帝のときに漢は最盛期となり、匈奴を制圧してその領土を西域に拡大し、現代の中国の領土の西端と同じほどに達した。また朝鮮半島やベトナムへもその領土を広げ、広大な世界帝国を建設した。
秦・漢帝国の地方統治の変化
POINT 郡国制から郡県制への移行 入試での中国の古代史で、最も良く問われるのが秦から漢にかけての地方統治形態の変遷である。ポイントは、秦始皇帝の郡県制 → 漢の高祖の郡国制 → 呉楚七国の乱で郡国の縮小、実質的郡県制 → 武帝の郡県制の完成、という流れである。郡県制・郡国制の概念の違いをしっかり押さえよう。帝国の劉邦(高祖)は全国を統治するにあたり、秦の始皇帝の郡県制(一律の中央集権体制)を改めて、郡県制と封建制(地方分権的統治)を併せた郡国制を採用した。その後、漢帝国は景帝の時に呉楚七国の乱で有力諸侯を鎮定してその力を奪い、実質的な中央集権化を進めた。それは形の上で郡国制の国と諸侯王は残したが、各国には中央から相(郡に派遣される守と同じ)を派遣して直接支配するということである。これによって郡国制は実質的な郡県制に移行したといえる。さらに武帝は諸侯王の領土削減と分割を進め、事実上の郡県制に完全に移行した。最終的に武帝は前106年、天下を13州に分け、州ごとに刺史を派遣して、管轄下の郡守と国相を監察させることとし、中央集権的な官領に基づく地方統治を完成させた。<渡邉義浩『漢帝国━400年の興亡』2019 中公新書 p.54,57>
漢帝国の機構
漢の中央政府の機構は、皇帝の下で行政全般を統括するのが丞相(じょうしょう)、それを補佐し、管理の監督に当たるのが御史大夫(ぎょしたいふ)、軍事面の統括者が太尉(たいい)であった。地方制度では武帝以降は郡県制が全土に及ぼされ、地方官として郡には郡守、県には県令が派遣されて中央集権体制がとられた。ただし、皇帝が近親や功臣を新たに王・侯に封じることは続けられた。官吏任用は地方から有能な人物を推薦させる郷挙里選が制度化された。全盛期、武帝の時代
前141年に即位した第7代武帝の時代(前2世紀後半~前1世紀初め)には、諸侯王の封土と権限を縮小して、実質的に郡県制による中央集権的な支配を実現させ、全盛期を出現させた。儒学の官学化 武帝は漢帝国の統治理念として、儒家の董仲舒の建言を容れ五経博士を置くなど、儒学の官学化を行った。儒教が体系化され、中国社会に定着するのは武帝時代よりも後の前漢末から王莽の新の時期と考えられるが、中国における儒教の発展にとっては画期的なことであった。
積極的な外征 さらにその支配領域を拡大し、大帝国を出現させ、周辺諸民族を支配した。特に匈奴に対しては衛青や霍去病などの将軍を派遣して攻勢を強め、その勢力を後退させた。さらに匈奴対策の一環として張騫を大月氏国に派遣し、西域を漢の勢力下に置くとともにシルク=ロードを制圧して東西貿易を行った。ベトナム北部に兵を送って南越を滅ぼし、朝鮮では衛氏朝鮮を滅ぼし楽浪郡を置き、それが日本における国家形成を促した。直轄領のさらに外部にある諸国に対しては、国王として封じてその支配を認めることで間接的に統治する冊封体制が採られた。
財政安定策 積極的な外征は次第に財政を圧迫したため、一方で五銖銭の発行や均輸法と平準法の施行などの経済政策に取り組んだ。財政を補うため、塩・鉄・酒の専売制を導入した。しかし、専売制と重税は次第に農民の生活を圧迫し、農民の反発も強まって社会不安が増大した。
漢の動揺
漢帝国は強大な皇帝権力のもと、すべての人民を直接支配するという専制国家であり、それを支えたのは、春秋・戦国時代に鉄製農耕具と牛耕の普及とともに氏族制度が崩壊し、かわりに形成された家族労働によって耕地を経営する農民層であった。しかし、前1世紀になると、このような農民層も重税・徭役・軍役などによって次第に疲弊し、貨幣経済の活発化はそのような弱小農民を没落させた。一方で、土地を集積し、奴隷を所有した豊かな層は「豪族」として力を伸ばすようになった。そのような社会の変化に加え、中央では宮廷で皇帝に近侍する宦官と、儒教理念を掲げる官吏との対立が激しくなり、また皇帝政治も宦官や外戚に左右されるようになって動揺し、後8年、外戚の王莽によって帝位を奪われ、漢は滅亡する。新と後漢の成立
宦官と外戚が皇帝の政治を左右するようになり、また外征が財政を脅かし、紀元後8年に外戚の王莽に帝位を奪われた。これまでを前漢と言い、王莽の新を倒した劉秀が漢王朝を再建するが、そちらは後漢として区別する。後漢は3世紀に滅亡するが、前漢と合わせて約4世紀にわたって中国を支配し、周辺の諸民族に大きな影響を与えたので、「漢」の名称は現在まで中国を意味する語句として定着している。漢帝国とローマ帝国
ユーラシアの東、中国大陸に漢帝国が登場した頃、その西端の地中海世界は、都市国家から発展した共和政ローマが台頭し、前1世紀末にはローマ帝国が成立する。東西の異なった文明圏に、二つの世界帝国がほぼ同時に展開したことは注目すべき現象である。この両者が直接交渉した記録はないが、後漢の時代の班超の部下の甘英が地中海域まで行ったらしいこと、マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝の使者とされる者が日南郡に来たことなど、何らかの交渉があったとも考えられて興味深い。補足 「漢」の意味とその使われ方。
「漢」は、漢文、漢語、漢字などのように「中国」を意味する文字として用いられるが、本来は「漢水」という川の名前にちなんだ地域名で、紀元前206年に劉邦が項羽から「漢王」という称号を与えられてから、一つの王室のシンボルとなった。そして漢王朝の樹立にともない、「漢」は中国王朝を象徴する用語となった。「漢」は王朝としては消滅したが、周辺の異民族集団との交流のなかで、中国の王朝、その領域および文化を複合的に象徴する用語として生き残った。中国王朝が「漢」地の文化をもつ人びとによって創られた時代は、中国王朝=漢、中国王朝の民=漢人とされたが、征服王朝では中国王朝=漢という前提が崩れ、「漢人」の意味は「漢地の文化をもつ人」に限定されるようになり、元代の漢人にはその前の金の支配領域にいた漢民族や女真族を意味していた。<王柯『多民族国家 中国』岩波新書 2005 p.26-28> → 漢民族 中国の少数民族