項羽
秦末の動乱に呼応して江南で挙兵し、劉邦と共に秦を倒したが、劉邦と覇権を争い、前202年、垓下の戦いで敗れた。
項羽はかつて秦に滅ぼされた江南の楚の国の将軍の血筋を引く人物。秦朝末期の前209年、陳勝・呉広の反乱に呼応し、楚国の復興を掲げて江南(長江南岸)で挙兵した。楚の名門武将の血統と指導力で各地の反乱軍の中心として頭角を現し、一方の有力者沛公劉邦との間で、いずれが先に秦を倒すか、という競走となった。
覇権をめぐる項羽と劉邦の攻防は繰り返されたが、次第に劉邦が人心を掌握し、追いつめられた項羽は、前202年最終的には、垓下の戦いで敗れ、江南に逃れる途中、長江北岸の烏江で漢軍との乱戦の中、自殺した。
項羽の勉強嫌い
楚の将軍として頭角を現した項羽は、陳勝・呉広の反乱が起きると秦打倒に立ち、楚の本軍を率いて咸陽を目指した。ところが楚の第二軍を率いた劉邦(沛公)が一足先に咸陽に入り、関中を抑えてしまい、その入り靴の要衝函谷関を抑えてしまったため、項羽の本軍は咸陽に入れなかった。怒った項羽は劉邦を自分が陣をしいた鴻門に呼びつけ、二人は会見することになった。これが有名な「鴻門の会」である。こまから経緯は省略し、緊迫した会見の様子だけを、見てみよう。
秦を滅ぼす
両者は咸陽を目指して先着を争ったが、先に劉邦の軍が関中に入り、項羽は1ヶ月ほど遅れて入った。前206年、劉邦は秦王の子嬰の降伏を受け入れ、秦は事実上滅亡していたが、その処分は項羽の入城を待っていた。項羽は子嬰以下の秦王室と臣下をすべて殺害し、首都咸陽・阿房宮・驪山陵などの破壊と略奪を命じた。劉邦との争いに敗れる
しかし項羽は関中に留まらず、江南に退いて楚国を再興して義帝を立て、自らは西楚の覇王と称して長江下流の彭城(現在の江蘇省徐州付近)を都とし、劉邦を関中ではなく、さらに奥地の漢水の上流域の漢王に封じた。しかし、前205年に項羽が主君筋にあたる楚の義帝を殺害してしまうと、項羽討伐の口実を得た漢王劉邦が挙兵し、ここに項羽と劉邦の戦いか開始された。この戦いは項羽の楚と劉邦の漢との戦いなので、楚漢戦争ともいわれている。覇権をめぐる項羽と劉邦の攻防は繰り返されたが、次第に劉邦が人心を掌握し、追いつめられた項羽は、前202年最終的には、垓下の戦いで敗れ、江南に逃れる途中、長江北岸の烏江で漢軍との乱戦の中、自殺した。
参考 『史記』に見る項羽
司馬遷の『史記』の本紀第7巻は「項羽本紀」となっている。本紀は歴代の皇帝の伝記であるが、皇帝にならなかった項羽の本紀があることは、司馬遷が項羽を帝位についたと同じであるとして重視していたことがわかる。その項羽本紀から、司馬遷の伝える項羽像のいくつかを紹介しよう。<小竹文夫・武夫訳『史記Ⅰ 本紀』 ちくま学芸文庫p.194-235>項羽の勉強嫌い
(引用)項籍は下相(江蘇・宿遷の西)の人で、字を羽といった。初めて兵を起こした時は年二十四であった。季父を項梁といい、梁の父は楚の将軍項燕で、秦将の王翦に殺された人である。項氏は代々楚の将軍となり、項(河南・項城)に封ぜられた。ゆえに項氏を姓とするのである。項籍は若いこと文字を習ったが覚えられず、やめて剣道を習ったが、これもものにならなかった。項梁が怒ると籍は、「文字は名や姓が書けるだけで十分、剣道は一人を敵にするだけで、習うほどの値打ちがない。わしは万人を敵とする術を習いたいのです」と言った。項梁が籍に兵法を教えたところ、籍は大いに喜び、兵法のあらましを了解した。しかし、またそれ以上は学ぼうとはしなかった。<p.194>鴻門の会
楚の将軍として頭角を現した項羽は、陳勝・呉広の反乱が起きると秦打倒に立ち、楚の本軍を率いて咸陽を目指した。ところが楚の第二軍を率いた劉邦(沛公)が一足先に咸陽に入り、関中を抑えてしまい、その入り靴の要衝函谷関を抑えてしまったため、項羽の本軍は咸陽に入れなかった。怒った項羽は劉邦を自分が陣をしいた鴻門に呼びつけ、二人は会見することになった。これが有名な「鴻門の会」である。こまから経緯は省略し、緊迫した会見の様子だけを、見てみよう。
(引用)沛公(劉邦)は翌朝、百余騎を従えて項羽のところに来、鴻門で会見し、「わたしは将軍と力をあわせて秦を攻め、将軍は河北に戦い、わたしは河南に戦いましたが、自分のほうが先に関に入って秦を破り、また将軍とここで会うなどとは、少しも想像しておりませんでした。いま小人が中傷して、将軍とわたしを仲たがいさせようとしたのですが・・・」と詫びると、項羽は「・・・わしは何で君を疑ったりしよう」と言い、沛公を留めて、いっしょに酒を飲んだ。→ 「四面楚歌」の故事は垓下の戦いの項を参照。、
項羽と項伯(項羽の叔父だが、張良とは親しい関係にある)は東面して上座につき、亜父は南面して次座についた。亜父とは范増(項羽の信頼する軍師)のことである。沛公は北面して三座に座り、張良(劉邦の軍師)は西面して下座に侍った。范増はしばしば項羽に目くばせをし、佩びている玉玦(一種の玉器)を挙げて、決心を促すこと三度であった(范増は劉邦を危険人物と見抜き、項羽に劉邦を撃つことを進言していた)が、項羽は黙然として応じなかった。そこで范増は座を起って外に出て項荘(項羽の従弟)をよび、「君王は憐れっぽい性質だから、おまえが入って長寿を祝し、祝酒がおわったら、一さしお見せしようと剣舞を舞い、はずみに沛公を撃って、その場で殺せ。そうでなけりゃ、おまえの一族みな虜にしよう」と言った。
荘が入って長寿を祝し、祝酒がおわると、「わが君と沛公とが酒宴せられるのに、陣中のこととて何の座興もないので、一さし剣舞をご覧に入れましょう」と言った。
項羽が、「それがよい」と言ったので、項荘が剣を抜いて起って舞うと、項伯もまた剣を抜いて舞い、常に身を以て沛公をおおいかばい、荘は撃つ機会がなかった。その時、張良は起って軍門にいくと、樊噲(劉邦の部下の将)に出会い、樊噲が、「今日の首尾はどうです」と聞くので、「非常に危急だ。いま項荘が剣を抜いて舞うているが、沛公を殺そうというのだ」と言った。
噲は、「そりゃ大変、わたしが入って沛公と生死をともにしましょう」と言って剣を帯び盾をひっさげて軍門に入った。戟をたがえた衛士が、止めて入れさせないようにするので、樊噲は盾をそばだてて衛士を地につきおとし、中に入って帷を引き開け、西向きに突っ立って目をいからし項王をにらんだ。頭の髪の毛は直立し、まなじりは裂けているようであった。
項羽は剣の束に手をかけ、坐り直して、「あの客は何者だ」と言った。張良が、「沛公の参乗(車に陪乗する従者)の樊噲という者です」と言うと、項羽は、「壮士である。彼に一献与えよ」と言った。そこで一斗入り(今の約一升)の卮になみなみと酒を注いで出すと、樊噲は押し戴いて、立って飲みほした。項羽が、「豚の肩肉を与えよ」と言ったので、一塊の肩肉を与えると、噲は盾を地上に裏返し置き、その上に肩肉を載せ、剣を抜いて切ってたべた。
項羽が、「壮士よ、まだ飲むか」と言うと、噲が、「わたくしは死をも恐れません。一卮の酒などなんの辞退いたしましょう。かの秦王は虎狼の心をもち、いくら人を殺しても殺し足らぬごとく、いくら人を罰しても、罰し足らぬを恐るるごとく、かくして天下はみな秦にそむきました。懐王(楚の王)は諸将と約し、『まっさきに秦を破って咸陽に入る者を王にしよう』と言われました。いま沛公は最初に秦を破って咸陽に入り、すこしの犯すところもなく宮室を閉鎖し、軍を覇上に還して大王の来られるのを待っていたのです。将を遣って関を守らせたのは、盗賊の出入と非常に備えたまでのこと、苦労して功績の高いことこのようなのに、まだ封侯の恩賞もないばかりか、かえって小人ばらの言を聴き、有功の人を殺そうとは、これ亡秦の継続であって、ひそかに大王のために惜しむところです」と言った。
項羽は返答ができず、ただ「まあ坐れ」と言った。噲が良(張良)について坐り、坐るとしばらくして沛公が起って厠に行った。そして噲を招いて軍門の外に出た。沛公が外に出てしまうと、項羽は都尉の陳平に沛公を呼びにやらせた。
沛公が、「いま出て来るとき、挨拶をしなかったが、どうしよう」と言うと、噲が「『大行は細謹を顧みず、大礼は小譲を持せず』とか申します。いま相手は刀や俎で、われらを魚肉にして食べようというのです。何の挨拶などいりましょう」と言い、ついに去った、。その時、張良をあとに残して詫びるようにした。 <p.210-213>