劉邦
秦末の動乱に挙兵し、前206年、秦を滅ぼす。さらに項羽との争いに勝ち、前202年に皇帝となり、漢王朝の始祖となった。 → 高祖
劉邦は農民の出身で、現在の江蘇省沛県の出身。若い頃、遊侠の徒(つまりヤクザ)と交遊し、諸国を流浪した。故郷に帰って役人(泗水の亭長)となり、始皇帝の驪山陵造営に動員され、村民を率いて行ったが、途中逃亡するものが多く、彼も残った者を率いて盗賊となってしまった。おりから陳勝・呉広の反乱が起こると、それに呼応して前209年9月、故郷の沛で挙兵した。
法三章 劉邦は、関中の父老たちを咸陽に集め、秦の法律を廃止し、今後は「人を殺したもの、傷つけたもの、および盗みをしたもの」のみを罰すると宣言した。法をわかりやすく、三つの罰則だけとしたことで人心を掌握しようとしたもので、これを「法三章」という。
劉邦は何度か敗北し、危機に陥ったが、蕭何、韓信や紀信などの有能な家臣に救われた。最終的に両者の戦いは前202年の垓下の戦いで劉邦が勝利した。
韓信らの働きもあって、劉邦はその支配領域を拡大し、項羽を追い詰めて行き、ついに前202年、垓下の戦いで項羽軍を破り、逃れた項羽もまもなく自死して、項羽と劉邦の戦い=楚漢戦争は終わりを告げた。
ただし韓信は功績によって楚王となったが、次第にその武力が警戒されるようになり、高祖の妃呂后によって捕らえられ、謀殺されている。
劉邦の仲間たち
沛公と称したと称した劉邦のもとに2,3千人の若者が集まった。その中には後に劉邦の側近として活躍する個性的な顔ぶれが揃っていた。蕭何(しょうか)は沛の小役人、曹参は獄吏、樊噲(はんかい)は屠狗者(犬殺し)、周勃は蓆(むしろ)職人などなど、下層民であった。挙兵後に加わり、後々高名を得る陳平(貧しいため相手がなく、ようやく結婚歴5回の寡婦を妻に迎えた)や韓信(貧乏でヤクザに絡まれたとき、股をくぐったので「韓信の股くぐり」で有名)もごく貧しい階層の出だった。韓の丞相の子の張良、秦の御史だった張蒼、秦の博士だった叔孫通などが比較的高い身分の出身だったが、彼らは何れも後に劉邦軍団に加わった者だった。<尾形勇他『中華文明の誕生』1998 世界の歴史2 中央公論社 p.286>秦を滅ぼす
陳勝・呉広の乱は鎮圧されたが、劉邦の兵力は次第に増加し、一方で同じく秦を倒すことを掲げて挙兵した楚の有力者項羽と競って関中を目指すこととなった。前206年、10万の兵を率いた劉邦が先に函谷関を突破して関中に入り、咸陽に迫ると、秦王嬰(宦官趙高に擁立された秦の三代目だが、皇帝を称さなかった)は劉邦に降伏し、ここに秦王朝の滅亡となった。劉邦は秦王を殺さず、宮室や府庫を封印して、項羽の来着を待った。法三章 劉邦は、関中の父老たちを咸陽に集め、秦の法律を廃止し、今後は「人を殺したもの、傷つけたもの、および盗みをしたもの」のみを罰すると宣言した。法をわかりやすく、三つの罰則だけとしたことで人心を掌握しようとしたもので、これを「法三章」という。
Episode 鴻門の会
一ヶ月ほど遅れて40万の大軍を率いて関中に入った項羽は、咸陽の東の鴻門(始皇帝陵の北方)に陣取った。両者の間には、先に関中に入った方が、その地の支配権を得るという取り決めができていたが、劉邦は項羽の楚が将軍という地位にあり、しかも大軍を率いていたので、その配下に入る姿勢を示したのだった。しかし、項羽は劉邦の本心を疑い、自陣に招いてその本心を探ろうとした。わずかな手勢を率いて鴻門に乗り込んだ劉邦をもてなす酒宴となり、項羽の配下が踊りながら劉邦を殺すチャンスを探る。それを察した劉邦の家臣樊噲(はんかい)が闖入し、主君をかばう。その隙に劉邦は厠に行くと言って宴席を離れ、そのまま脱走して自陣に戻った。これが『史記』で描かれた「鴻門の会」の場面である。 → 項羽の項に詳しい。劉邦、漢王となる
咸陽に入った項羽は秦王嬰とその一族をことごとく殺し、都城と離宮阿房宮を焼き払った。その財宝は、諸将に分け与えられ、始皇帝の陵墓驪山陵も兵士に暴かせ、荒らすに委せたという。しかし、項羽は咸陽にとどまらず、主君である楚王を義帝として立て、みずからは西楚の覇王と称して江南に退き、劉邦には漢水の上流の地を与え漢王に封じた。ここから「漢」の国号が起こり、この前206年を漢の高祖の元年としている。楚漢戦争
関中を与えるという約束を反故にされた劉邦であったが、形の上では漢王に甘んじ、そこを足場に力を蓄えることとした。しかし、翌前205年、項羽が楚の義帝を殺害したことから、劉邦には項羽を倒す大義名分が生じ、ついに項羽を討伐する軍を起こし、ここに楚漢戦争とも称される劉邦と項羽の最終的な決戦が開始された。劉邦は何度か敗北し、危機に陥ったが、蕭何、韓信や紀信などの有能な家臣に救われた。最終的に両者の戦いは前202年の垓下の戦いで劉邦が勝利した。
Episode 故事成句の宝庫 部将の韓信
漢王に封じられた劉邦は、旗揚げ以来の謀臣蕭何の推薦で、韓信を大将に起用した。この韓信は、実に多彩な人物で、いろいろな故事成句を残している。(引用)韓信(?~前196)は若いころ貧乏な怠け者であり、あるとき、ならず者に脅されると、相手にならないほうがいいと判断し、言われるがままに、腹ばいになってその股の下をくぐったとされます。これが、後世、負けるが勝ちという意味で広く用いられる「韓信の股くぐり」です。その後、韓信は項羽の傘下に入りマスタ、鳴かず飛ばずのまま、やがて劉邦にくら替えしたという前歴がありました。蕭何はこの韓信を「国士無双」(国に二人といない逸材)だと絶賛し、劉邦はこれを受け入れて大将に起用したのです。劉邦の賭けは成功しました。以後、韓信は紀元前204年、わずか1万の軍勢を率い河をうしろに「背水の陣」をしいて、趙王歇の二十万の大軍を撃破したのをはじめ、向かうところ敵無しの大活躍をつづけ、劉邦の天下統一の立役者になったのです。<井波律子『故事成句でたどる中国史』岩波ジュニア新書 2004 p.96>「背水の陣」の故事は決死の覚悟で事に当たることを意味する成句となった。ことのtき韓信が捕虜にした趙王軍の軍師、広武君李左車に、今後、燕や斉をいかに攻めるべきかたずねたところ、「敗軍の将は以て勇を言うべからず。亡国の大夫は以て存を図るべからず(敗軍の将は勇気についてしゃべってはいけない。滅びた国の高官は他国の存続について計画することはできない)」と答えた。この言葉から「敗軍の将は兵を語らず」という成句が生まれた。
韓信らの働きもあって、劉邦はその支配領域を拡大し、項羽を追い詰めて行き、ついに前202年、垓下の戦いで項羽軍を破り、逃れた項羽もまもなく自死して、項羽と劉邦の戦い=楚漢戦争は終わりを告げた。
ただし韓信は功績によって楚王となったが、次第にその武力が警戒されるようになり、高祖の妃呂后によって捕らえられ、謀殺されている。
漢の高祖
漢による中国統一に成功し、同年、漢の初代皇帝となり、一代で漢帝国の基礎を築いた。農民出身で皇帝となったものは中国の歴史で二人しかいない。漢の高祖劉邦と、明の太祖朱元璋である。 → 高祖