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衛氏朝鮮

朝鮮半島における最初の国家とされる。燕から亡命した衛満が前195年に建設。前108年に漢の武帝によって滅ぼされ、楽浪郡などの四郡が置かれた。

 朝鮮には、建国神話として檀君(だんくん)神話があり、その神話上の国を檀君朝鮮と言っている。次に殷に仕えていた箕子が、周の武王によって朝鮮に封じられて建国したという箕子朝鮮(きしちょうせん)が生まれた、とされている。つづいて戦国時代に七雄の一つが半島に支配を及ぼし、さらに秦から漢への交替期に生じた動乱によって、漢人の朝鮮半島への流出が続き、そのような流民の一人であった燕人の衛満という者が、の高祖(劉邦)の末年に衛氏朝鮮を建てた。檀君神話と箕子朝鮮は神話と伝説の域を出ないが、衛氏朝鮮は実質的に最初の国家であると考えられている。現在ではこの衛氏朝鮮までを後の李成桂が建てた「朝鮮王朝」と区別して古朝鮮と言っている。

衛氏朝鮮

 衛氏朝鮮については司馬遷の『史記』に記事が見られる。それによると前202年に漢が中国を統一すると、櫨棺というものを燕王としたが、その領域は遼河までとした。前195年、燕王が匈奴に亡命した際、燕人の衛満は一千人を率いて朝鮮に亡命に、漢民族の亡命者や朝鮮の現地人を支配し、箕子朝鮮の王を追放して王となった。都は王倹城(現在のピョンヤン付近か。異説もある)をに築き、半島の北西部を支配するようになった。漢の遼東太守は、衛満を外臣とし、遼東郡外の異民族の支配を委せ、その代わり異民族が漢に朝貢するのを妨げないことを約束させたので、衛満はその支配を朝鮮半島南部にも及ぼした。
 衛満は燕人とされているが、『史記』などでは衛満は髷を結い、朝鮮の衣をまとうなど、朝鮮民族として描かれており、現在の韓国では衛満は朝鮮人みられている。衛氏朝鮮は衛満から孫の右渠までの三代、約90年にわたって存続し、最後は漢の武帝の攻撃に対し粘り強く抵抗した上で滅亡した。衛氏朝鮮が小国ながら漢帝国と一時は対等に戦うことが出来た背景には、良質の鉄製兵器を持っていたことが大きな要因であったという説がある。<金両基『物語韓国の歴史』1989 中公新書 p.39>

衛氏朝鮮の滅亡

 漢帝国ははじめ衛満を朝鮮王として封じ、朝貢を受けていたが、衛満の孫の右渠(うきょ)は、漢に朝貢しないばかりか、異民族の漢への朝貢を妨害するようになった。漢の武帝は右渠を討つこととし、前109年に出兵、2年にわたる包囲によって王倹城を落とし、前108年、衛氏朝鮮を滅ぼした。
 漢の武帝が衛氏朝鮮を討とうとしたのは、朝鮮が匈奴と連合することを恐れたためでもあったが、朝鮮の開発が進んだことをみて植民地化しようとする狙いがあった。前109年にはじまった武帝の侵略は容易ではなかった。朝鮮王右渠は山東半島から渡ってきた漢の海軍と遼東郡からの陸軍あわせて5万の大軍を迎え撃ち、一旦はそれを撃退し、武帝は侵略を停止するほどの打撃を受けた。そこで武帝は和戦両様の策をとり、朝鮮の大臣に内応するものを作ると、大臣や将軍で漢に降るものが続き、ついに翌108年、右渠は漢に内応した大臣の家臣に暗殺された。なおも続いた抵抗をようやく抑え、漢は朝鮮を支配することが出来た。

滅亡と漢の四郡設置

 漢の武帝は衛氏朝鮮を滅ぼした後、その地に郡県制をしいて、楽浪郡、玄菟郡、臨屯郡、真番郡の四郡を置いた。楽浪郡は現在のピョンヤンを中心とした朝鮮北西部に置かれたが、他の三郡の正確な位置はわかっていない。前82年には真番郡・臨屯郡は廃止され、玄菟郡もしばしばその管轄地域を変化させている。その理由には現地の住民が郡県支配に抵抗したためとも考えられている。<井上秀雄『古代朝鮮』2004 講談社学術文庫 p.33-41>
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書籍案内

井上秀雄
『古代朝鮮』
初刊 1972 NHKブックス
再刊2004 講談社学術文庫

金両基
『物語韓国史』
1982 中公新書