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武帝(漢)

前2世紀の中ごろの漢の全盛期の皇帝。郡県制の実質的施行など帝国支配の安定強化に成功し、匈奴にたいしてなど外征を行って領域を最大にした。その反面国家財政は枯渇し、塩・鉄・酒の専売制、均輸・平準などで財政の安定をはかった。また国家統治の理念として儒学を採用し国学とした。

 武帝(159bc~87bc)は漢帝国の第7代の皇帝(在位141bc~87bc)。前141年に即位したときはわずか16歳であった。曾祖父高祖の創始した漢帝国は呉楚七国の乱を平定して安定期に入っていたが、武帝はさらに大帝国に脱皮させる斬新な策を次々と打ち出した。

中央集権化の完成

 まず高祖、景帝に続いて郡県制の施行地を拡大し、ほぼ全土への統一的支配を実現し、さらに中国南部や朝鮮半島への郡県制を拡大した。また、官吏登用制度では郡県制を基盤として郷挙里選の制度を設け、人材登用を図った。また統一国家の理念として董仲舒の意見をいれて他の諸子百家の説を退け、儒家のみを尊重する路線(儒学の国教)を打ち出し、帝国の路線を明確にした。
推恩の令 呉楚七国の乱の後も有力者を王国や侯国に分封することが続いていたが、武帝はそれらの諸侯王の封土や権限の削減を図り、実質的な中央集権化を進めた。それが前127年の推恩の令である。
(引用)その内容は、皇帝の恩徳を諸侯王の子弟にひとしく推しおよぼすという名目のもとに、諸侯王はかならずその封地を子弟に分割し、それによって子弟を列侯にする、というものである。つまり、その名目は皇帝の恩徳の普及であるが、実質的な効果は、諸侯王の封地が一代ごとに分割縮小されるということにほかならない。<西嶋定生『秦漢帝国』1997 講談社学術文庫 p.178>
 こうして呉楚七国の乱を境として諸侯王に対する統制は強化され、諸侯王の封地である王国の統治は、実際には中央政府の派遣した官吏によってなされることとなったから、漢帝国の国家組織は郡国制であるといわれながらも、その実質は郡県制とほとんど相違ないものであったといえる。この変革は、漢帝国における中央集権化の完成を示すもので、武帝のときに漢帝国の権威が極限にまでたかめられることとなった。<西嶋『同上書』p.179>

帝国支配の拡大

 対匈奴の積極策を模索し、前139年張騫大月氏国に派遣した。張騫の帰国は十数年後となるが、匈奴への攻勢を可能にし、西域への情報を多数もたらすこととなり、武帝は敦煌以下の四郡(河西四郡)を置いて西域への進出拠点とした。
 匈奴に対する軍事行動は、前129年から衛青には7度にわたって遠征させ、前121年には霍去病を派遣して西域の匈奴勢力を一掃させた。前104年には李広利を大宛(フェルガナ)に派遣して討ち、西域にその勢力を伸ばした。
 前112年には、ベトナムの南越を滅ぼして日南郡などを置き、前108年には朝鮮にも侵出して楽浪郡以下の四郡を置いて直轄領とした。このように武帝時代には、その版図を中華以外の世界に拡大し、文字通り漢帝国を出現させた(もっとも武帝自身は長安にいて、一度も戦陣に臨んだことはない)。
積極的な外征の背景 武帝の積極的な対外政策は、匈奴の「侵攻」を抑えるという防衛目的もあったが、それ以上に、国内に満ちていた困窮した農民たちの生活を安定させるために、新しい農耕地を開拓する必要に迫られてたという理由があった。衛青や霍去病の占領地でも、田卒といわれる兵士が耕地や潅漑用水の開発にあたり、戌卒といわれる戦闘専門の兵士がその防衛にあたっていた。<尾形勇他『中華文明の誕生』1998 世界の歴史2 中央公論社 p.324>

財政の安定策

 さかんな外征と土木事業は帝国の財政を圧迫したため、財政再建を図る必要が生じた。そのため重税策を取り、また塩・鉄・酒の専売制均輸法平準法五銖銭の発行などによって財政の安定を図った。その内容は次のようにまとめることができる。
武帝の財政政策
  • 増税策 漢代の租税には、農地の収穫物に対して土地所有者に課税される田租(景帝の時、30分の1の定率となる)、15歳~56歳の男女に課せられる人頭税である算賦(年額一人一算=120銭)、申告制の財産税である算訾(さんし、評価額1万銭につき一算=120銭)などがあり、他に一般男子への年間30日の徭役(貨幣代納=300銭)があった。このうち、武帝時代には、財産税である算訾を、商人に対しては二千銭につき一算、手工業者には四千銭につき一算が加算して増税した。この商工業者にかけられた財産税を算緡銭(さんびんせん、緡とは“ぜにさし”のこと)といった。そのほか、舟や車、家畜などに対する増税が行われた。またこの増税の施行に当たっては虚偽の申告による脱税を防止するため、密告を奨励した。隠匿が発覚すると財産はすべて没収、そのものは辺境防備に追いやられ、密告した者には告発額の半額が与えられた。
  • 塩・鉄・酒の専売制 は生活に欠かせない食品と用具であり、ながく塩商人や鉄商人は巨利を蓄えていた。武帝の政府はこの大商人の利益を国家が奪うことをねらい、この両品を国の専売とした。まず前119年に塩・鉄を、前98年に酒を専売とした。この塩・鉄・酒の専売制度は国がその生産と販売を管理し、利益を独占して大商人を抑えることを目的としていた。
  • 均輸法平準法 武帝は財務官僚桑弘羊の提言を採用し、均輸官をおいて物資の余っている地方からは買い取り、不足する地域に売って利益を得る均輸法と、物価が低い時に物資を買い取って物価を高くし、騰貴した時に売って利益を得る平準法を採用した。これはいずれも商品売買という経済行為を国が直接行い、国が利益を得ようとする者であった。
  • 五銖銭の発行 増税・専売制などの前提となるのが貨幣制度の統一であった。漢では当初、秦の始皇帝の半両銭を踏襲したが、高祖の時、民間の鋳造を許可したため、一定量に達しない小さな貨幣が出回ったりして混乱した。その後私鋳銭は禁止されたが、武帝は一歩進め、前119年に新しい統一通貨を鋳造した。それが五銖銭である。五銖の銖とは重さの単位で、五銖の重量に統一され、表に「五銖」の二文字を鋳出した円形方孔銭であった。また五銖銭は初め地方官庁である郡国でも鋳造させたが、品質にばらつきがあったため、前113年には中央官庁のみが鋳造発行するようにした。この五銖銭の形態はこれ以後の中国貨幣の基本形式(さらには日本でも)となって踏襲され、唐代の初め621年開元通宝が出現するまで、約700年間にわたり継続した。
  • その他 漢政府は、売官・売位(国の官職や位を、金を納めた者に与えること)さらに贖罪(罪人から金を取って罪を許すこと。現代で言えば交通違反者に対する罰金や保釈金制度もあるから、漢の制度をけなすことはできないが)なども国の収入として盛んに行われた。
そのねらいと影響  武帝の財政政策は、国の財政を再建することにあり、その目的は充分に達せられ、漢帝国の財源は安定し、大帝国として前1世紀末までながらえることとなった。この武帝の増税政策の標的となったのは農民ではなく、大商人層であったことは注目できる。背景には、農業生産者を大事にし、商業を蔑視する儒教的理念もあったと思われるが、経済統制の思想は法家的発想でもあった。それよりも、国家が専売制や商品価格の管理、通貨発行によって経済を統制するというやりかたは、近代国家、あるいは極論すれば社会主義経済に類似している。古代における資本主義に対する社会主義的経済統制政策と言えるかも知れない。それを推進したのが桑弘羊などの財務官僚であったが、それに対して、はたして大商人層は強く反発していた。武帝の存命中は抑えられていたが、その死後、大商人とその支持を受けた反桑弘羊派は、桑弘羊に論戦を挑む。それは専売制や均輸法などの政府の経済統制は、経済の発展を阻むものだから、即刻やめよ、という議論であった。まさに現代における、郵政国営派と郵政民営派、あるいはケインズ的経済政策論者対新自由主義経済論者の議論と同じではないか。この論争は『塩鉄論』という本に双方の議論が記録されているが、現在の経済議論に似ているところがあり興味深い。この時の結果は自由化論者が敗退し、酒の専売制が廃止されたにとどまったようだが、統制派の桑弘羊はまもなく政争に巻き込まれて自殺に追い込まれる。

武帝の統治の意義

 武帝は前113年に、前140年に遡って、最初の年号「建元」を制定した。年号(元号)を制定することで皇帝は時間も支配することを示したもので、これ以降の中国の各王朝、周辺諸国の支配者に継承されていく。また武帝は、前104年に、秦の始皇帝以来の泰山での「封禅」の儀式(天帝から皇帝の地位を与えられたことの証しとして儀式)を行い、その年に初めて皇帝として暦を改定し太初暦を制定した。これは殷代以来の太陰太陽暦を継承し、歳首を正月とするものであった。
 このように武帝の帝政は、中国の皇帝政治の原型を作り上げたと言っていい。武帝の統治は54年間におよび、前87年に死去した。中国の皇帝で半世紀を超えて在位したのは、武帝以外に、清朝の康煕帝乾隆帝だけである。

Episode 武帝の長すぎた在位

 武帝の皇后は衛皇后といい、武帝の姉の平陽公主の女奴隷であったが、美貌と歌がうまいことから武帝に見初められて後宮に入り、皇子の戻太子を産んだことから皇后に取り立てられた。その弟の衛青と甥の霍去病(かくきょへい)は、衛皇后の口利きで将軍となり、対匈奴作戦で活躍した。武帝は17歳で即位してから70歳まで実に55年間皇帝の座にあったが、長すぎた在位は最後に悲劇を生むこととなった。晩年の武帝は神仙思想にかぶれ、年老いて容色の衰えた衛皇后を見限って若い美女李夫人にうつつをぬかすようになった。31年間も皇太子のままでいる戻太子は、もうろくした武帝を一挙に葬ろうと焦り、前91年にクーデターを起こしたが、結果は悲惨だった。クーデターは失敗し、戻太子と母の衛皇后は追い詰められて自殺した。これが武帝の晩年を汚した「巫蠱(ふこ)の乱」といわれる出来事で、その四年後に武帝は死んだ。<井波律子『裏切り者の中国史』1997 講談社選書メチエ p.72>

武帝の晩年

 晩年の武帝と皇太子の間に起こった悲劇である前91年に起こった「巫蠱(ふこ)の乱」は、現代の我々には判りずらいが、次のような経緯だった。
巫蠱(ふこ)の乱 武帝と衛皇后との間に生まれた皇太子は、すでに38歳になっていたが、66歳の武帝は今だ健在だった。それでも最近は病気がちで、宮廷では代替わりが近いことがささやかれるようになった。宮中で次の宰相を狙う検察官の江充(こうじゅう)という男は皇太子との間がうまくいっていなかったので、一計を案じ、皇帝が病気なのは誰かが巫蠱の術を使って呪っているからですと申し出た。巫蠱とは、桐の人形を地下に埋めて人を呪う妖術で、かつて衛皇后のライバル陳皇后もその疑いをかけられて皇后の地位を奪われていた。それを信じた武帝は江充に命じて秘密警察を動員、巫女などが次々と捕らえられ、拷問が加えられた。宮中をくまなく捜索させたところ、皇太子の御殿の地下から呪いの人形が見つかった。驚いた皇太子は罠にはめられたことを怒り、兵を出して江充を捕らえ殺してしまった。しかし、江充を信じた武帝は、皇太子が兵を動かしたことは自分への反逆だととらえ、その討伐を命じた。こうして長安城内で戦闘が始まり、皇太子側は囚人を解放して味方にし、合戦5日に及んだ。敗れた皇太子は城外に逃れたが、靴屋に匿われたていたところを見つかり、もはやこれまでと自殺した。この事件で衛皇后もその地位を奪われて自殺、その他の衛氏一門も多くが殺され、失脚した。衛青とその甥の霍去病はすでに死んでいたが、ただ一人、霍去病の弟霍光だけが武帝の側近として生き延びた。そして武帝自身がこの事件から5年めの前87年に死去した。 <吉川幸次郎『漢の武帝』1949 岩波新書 p.32,p.193-203>