朝鮮(古代の朝鮮)
中国大陸の東北地方から日本と海峡を接する朝鮮半島に及ぶ広い意味の地域名、また民族名。国号としては古朝鮮は別として14世紀の朝鮮王朝に始まる。現在も主として朝鮮半島全域を示す場合は朝鮮と言うが、国家は北の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)、南の大韓民国(韓国)に分断されている。
朝鮮民族の形成
朝鮮 Yahoo Map
注意 朝鮮の範囲 一般的に朝鮮といった場合、現在の中国・ロシアとの国境となっている鴨緑江・豆満江以南の朝鮮半島を示している。しかし「朝鮮」の歴史上は、古朝鮮から三国時代の高句麗まで、遼東半島方面から現在の中国東北地方(旧満州)も「朝鮮」に含めておかなければならない。また高句麗の後継国家である渤海も同様である。現在も中国の吉林省には約190万の朝鮮民族が生活している。このことが現在も中国・北朝鮮両国に微妙な軋轢を生むこともある。世界史を学ぶ上では事実に基づいて、現在の国境にとらわれない見方をしなければならない。
「朝鮮」と「韓国」
日本に最も近い隣国を、われわれは「朝鮮」とも「韓国」とも言っている。同じ朝鮮半島の歴史を述べるにも「朝鮮史」と「韓国史」が並び称されている。どのどちらが正しいのか、適当なのかの答えは、実はそれほど容易ではない。それぞれに現実的な根拠と、歴史的な背景があるからである。第二次世界大戦後の冷戦構造で分断国家となり、互いに相手を認めなかった時期には、それぞれ「北韓・南韓」、「朝鮮北半部・南半部」などと呼び合っていた。総じて言えば、「朝鮮」といえば北部政権の立場を表明し、「韓国」といえば南部のそれを支持することを意味していた。<武田幸男他『朝鮮』1993 地域からの世界史1 朝日新聞社 p.5-6>分断国家となったという現実的な根拠に対して、歴史的・伝統的な背景としてもそれぞれ根拠のあることだった。「朝鮮」という用語はすでに紀元前数世紀、遼東から朝鮮半島にかけて活躍した種族の名称であり、半島最初の古代王朝名「古朝鮮」として広く知られていた。古朝鮮が滅ぼされてからは中国が置いた楽浪郡の中に朝鮮県というの一つの県名として名を留めた。14世紀の朝鮮王朝はその名を復活させたものだった。
「韓国」は紀元前後に朝鮮半島中・南部に分立した数十国は馬韓・弁韓・辰韓の三グループに分けられて三韓と言われ、それが百済・新羅・加羅諸国などの成立基盤となった。19世紀の末に朝鮮王朝は韓の伝統を踏まえ、大韓帝国と改称した。
古朝鮮
「朝鮮」の建国神話から、前2世ごろの紀歴史上最初の国家形成までの檀君朝鮮・箕子朝鮮・衛氏朝鮮の時代を現在は「古朝鮮」と言っている。それは、1392年に李成桂が建てた朝鮮王朝と区別するためである。ただし檀君朝鮮・箕子朝鮮は神話あるいは伝説上のことで、そのまま歴史的事実とすることは出来ない。檀君神話 檀君(だんくん)とは帝釈天の庶子を父とし、人間に変身した熊女を母として生まれた神人で、現在も朝鮮民族の始祖と信じられている。それはシャーマニズムの要素に仏教・道教の観念が取り込まれたもので、檀君神話が生まれたのは高麗の時代の13世紀、モンゴルの支配に苦しんでいた朝鮮民族によって、民族意識の高揚とともに生み出され、朝鮮王朝時代には国家的祭祀が行われ、近代でも檀君が朝鮮王に即位したとされる紀元前2333年を元年とする檀君紀年が用いられた。
箕子朝鮮 箕子(きし)は中国人で、殷に仕え紂王の暴君ぶりを諫めたために疎んじられ、周の武王が殷を滅ぼしたときに朝鮮に封じられて、紀元前1122年に王となり民の教化につくした。理想的な中国的な聖人としての性格が強く、青銅器文化を朝鮮に伝えた中国人集団の存在が背景にあったと考えられている。
(引用)檀君神話と箕子伝説は、高麗時代の階級を代表する二大思潮である。檀君神話は1231年からはじまるモンゴルの侵入に対抗する全国的な農民の義兵闘争を基盤とする被支配階級の民族主義的な思潮である。これにたいし箕子朝鮮伝説は、新羅儒学の伝統を継承する高麗時代の儒学家たちが、中国の賢人と尊崇する箕子を礼賛する支配階級の儒教思潮である。<井上秀雄『古代朝鮮』2004 講談社学術文庫 p.22>ここでは檀君神話と箕子朝鮮について、日本人学者の見解をまとめ、紹介したが、自ずと韓国人学者の見解は異なっている。金両基『物語韓国の歴史』では檀君神話と箕子朝鮮伝説について詳しく説明し、年代はそのまま信じられないとしながら、単純な神話伝説として否定するのでなく、一定の歴史的事実を踏まえていると見るべきであるとして、井上氏などを批判している。<金両基『物語韓国の歴史』1989 中公新書 p.2-30>
考古学上の知見
朝鮮半島での最古の人類遺跡は、ピョンヤン市の黒隅里遺跡などで、数十万年前の旧石器時代遺跡でハンドアックスやチョッパーなどの打製石器がみつかっている。半島北部ではホモサピエンスの化石人骨も発見されている。およそ紀元前5千年前後に、土器が出現し、新石器時代に移行するが、彼らは東北アジア一帯に広く生活していたツングース系の濊族や貊族と言われた人々であったと考えられている。櫛目文土器 朝鮮半島の新石器文化を代表する土器である櫛目文土器は、紀元前4000年頃にはじまる、櫛で掃いたような幾何学模様を持つ丸底の土器である。本格的な農耕は前2000年頃からはじまったようで、遺跡から炭化したヒエや石製の鋤、鍬、鎌、磨臼が出土している。
稲作の開始 さらに前1000年頃から青銅器が作られるようになり、前300年頃まで青銅器時代がつづく。この頃の土器は無文土器が特徴で、半島中南部の海岸地方で稲を栽培しはじめたと考えられる。稲作の伝播については、中国の華南地方からもたらされたという南海ルートと、半島北部の大同江流域を経由した北方ルートが考えられるが、いずれか判断はまだ出来ていない。
銅剣・銅鏡 稲作と同時に青銅器が作られるようになったが、銅剣には下半身が膨らんだ形の特徴的なものが遼東地方とともに朝鮮北部で見られ、銅鏡は同じく中国東北地方に起源を持つ二つの鈕(つまみ)をもち電光模様が荒く鋳出されている独特なものである。また、この時期には北方系の石棺墓と支石墓(ドルメン)が見られ、稲作とともに集団の指導的地位を世襲した者が、銅剣・銅鏡の独占によって武力と権威を誇示したものと考えられる。<武田幸男他『朝鮮』1993 地域からの世界史1 朝日新聞社 p.23-30>
鉄器時代 前500年頃から、徐々に鉄製農具の制作がはじまっていった。それとともに有力な首長層が成長し、遼東地方での漢民族との接触の中から、半島西北部に国家形成への基盤が生まれていった。
中国王朝の進出
前4~3世紀、中国の戦国の七雄の一つ、燕が遼寧地方に進出して長城を建設、さらに朝鮮に侵攻し、朝鮮北西部はその支配下に入った。戦国時代の分裂を終わらせ中国を統一した秦は、前214年に朝鮮北西部を支配下に収めた。衛氏朝鮮
中国で秦から漢への変動に伴う戦乱が起こり、動乱を避けて中国から多くの難民が朝鮮に避難してきた。その流民の一人であった衛満は古朝鮮の実権を握り、前195年に衛氏朝鮮を建て、朝鮮半島の南東部にも進出して。古朝鮮の滅亡 前141年に即位した漢帝国の武帝は、安定した権力を確立すると、積極的長い政策を展開、匈奴に対する攻勢を強めるとともに、東方の朝鮮や南方のベトナムにもその支配を及ぼそうとした。まず前128年に朝鮮東部に蒼海郡を置き、ついに前108年には衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪郡以下の四郡を置いて、郡県制による支配を及ぼした。この衛氏朝鮮=古朝鮮の滅亡によって朝鮮半島は漢帝国に組み込まれて漢民族の支配を受けることになるとともに、漢文化の影響を強く受けることになり、それはさらに日本列島などを含む東アジアの情勢に大きな影響を及ぼすことになった。