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西匈奴

前60年ごろに分裂。東匈奴・漢に抵抗し、西に移動した後、前36年、漢の西域都護によって滅ぼされた。

 匈奴は前60年ごろ、東西に分裂したが、モンゴル高原の東匈奴に対して、北方・西方を支配したのが西匈奴といわれる。郅支(しっし)単于(兄)は呼韓邪(こかんや)単于(弟)との戦いに勝ったが、呼韓邪が漢の支援を受けて勢力を回復させることを恐れ、康居(シル川下流を本拠とするトルコ系遊牧民か)と同盟を結ぶため西に移動した。西に向かう途中、寒波に遭い、康居に到達したのはわずか3000人だったという(前44か43年)。ともかく康居と同盟して烏孫を攻撃し勝利をおさめ、天山山脈北麓のタラス河畔に城を築いた。しかし郅支単于は次第に尊大になり、康居を軽んじ、周辺諸国にも貢納を求めたために反発を買うようになった。前36年、その機を見た漢の西域都護は西域出身の兵を集めて単于の城を攻め、単于以下、閼氏(単于の妻)や太子などを殺した。
「ここに西匈奴はその短い存在を終えたのである(前36年)。本来騎馬遊牧民である匈奴が城をつくり、それを守ることにはなれていなかったのだろう。」<林俊雄『遊牧国家の誕生』吉川弘文館 世界史リブレット98 p.86>
 郅支(しっし)単于の首は長安にさらされた。<西嶋定生『秦漢帝国』講談社学術文庫 p.340>
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書籍案内

林俊雄
『遊牧国家の誕生』
世界史リブレット98
吉川弘文館 2009