匈奴/匈奴帝国
匈奴はモンゴル高原にあって漢民族の農耕社会を脅かした遊牧騎馬民族。前3世紀末、強大な匈奴帝国を建設し、漢を圧迫した。漢の武帝に制圧され、紀元前1世紀頃東西に分裂する。その後も紀元後1世紀に南北に分裂を繰り返し、そのうちの南匈奴は五胡の一つとして勢力を回復、4世紀には華北を支配したが、次第に漢民族に同化した。なお西方に移動した北匈奴は、フン人となったとの説もある。
中国の北方民族のなかで、モンゴル高原で遊牧生活を送っていた匈奴は騎馬遊牧民であり、馬上から弓を射ながらの攻撃は農耕民である漢民族の脅威となっていた。その存在が中国の歴史の中に現れるのは、前4世紀末の戦国時代の末期であった。そのころ、戦国の七雄のうち、最も西に位置した秦は匈奴と接していたことから早くからその戦術を取り入れていたと思われ、次第に有力になった。それに対して東方の韓・魏・趙・斉・燕の5国が合従して(連合して)あたろうとし、前318年に両軍が戦った。このとき五国連合は秦を牽制するために北方にあった匈奴の騎馬軍を味方にし、じかに接するようになった。この戦いは秦の勝利に終わったが、匈奴の存在が意識された最初であった。趙の武霊王は前307年、「胡服騎射」といわれた匈奴の服装と騎馬戦術を取り入れるという軍制改革を行っており、匈奴の文化の影響が中国に影響を与え始めたことがわかる。
王莽の新に代わった後漢の光武帝は和親の回復を求めたが、匈奴は応じようとせず、対立は深まった。ところが、匈奴側に内部分裂が起こり、後漢に有利に展開することとなった。呼韓邪単于の孫の代の単于の時、単于位をめぐる争いが生じ、日逐王比という者が単于になれないことを不満として48年に後漢王朝に降伏してきたのだった。これによって匈奴は南北に分裂し、南匈奴は後漢の庇護を受け、北匈奴は対立することとなる。<西嶋定生『秦漢帝国』1997 講談社学術文庫 p.403,484-486>
匈奴帝国が崩壊した1世紀末以後のモンゴル高原には、東部を本拠とした鮮卑(トルコ系またはモンゴル系)が有力となり、後漢末の混乱で亡命してきた漢人を受け容れて漢化しながら、しばしば中国本土に侵攻するようになる。一方、南匈奴は後漢に服属して以来、中国の北辺に移動して定住し、五胡の一つとされ、晋の八王の乱に乗じて、華北に進出し、五胡十六国時代の趙、北涼、漢、夏などを建国した。華北が鮮卑族の北魏によって統一されるとそれに服属し、同化していった。
秦の匈奴対策
前3世紀の終わりごろ、匈奴自身が部族統一をなしとげ強力な国家を形成していった。その存在は、前221年に中国を統一した秦の始皇帝にとって脅威であったので、前215年、将軍蒙恬を派遣し、匈奴の勢力をオルドス地方から追い払い、またその南下に備えて万里の長城(現在の長城そのものではない)を建設した。また、都の咸陽から黄河の北岸の九原の近くまで軍用道路として「直道」を開通させた。匈奴帝国
匈奴は秦の圧迫を受けていったん勢力が衰えたが、中国本土で秦が亡び、項羽と劉邦が争っている間に勢力を盛り返し、冒頓単于のもとで強大な遊牧国家を形成、東の「東胡」と西の「月氏」を征服して「匈奴帝国」を実現させた。 前200年、漢の高祖(劉邦)は匈奴帝国の冒頓単于と平城で戦って敗れ、漢宗室の女性を公主(天子の娘)として単于の妻とし、毎年一定の贈り物を匈奴の王に贈るという屈辱的な和を結んでいる。それ以降漢と匈奴帝国は対等な外交関係をとることとなった。漢の武帝の匈奴制圧
一転して武帝は対匈奴強攻策に出て、前129年以来、衛青、霍去病(かくきょへい)らの諸将軍に大軍をつけて討伐軍を送り、匈奴を圧迫し、西域に進出した。また匈奴を挟撃する目的で張騫を大月氏国に派遣した。この武帝によるたび重なる討伐を受けたため、匈奴は次第に衰退し、紀元前1世紀頃には東西に分裂する。匈奴の東西分裂
匈奴は前3世紀末から前漢と戦ってたびたび勝利し、全盛期を迎えたが、漢の武帝に西域を抑えられたことによって次第に衰えることとなった。漢は前59年に西域都護を置き、匈奴討伐を強めた。その前の前60年ごろ、虚閭権渠(きょりょけんきょ)単于が没すると内紛が生じ、一時は五人の単于が並立するという分裂状態となった。一般にこの時を匈奴の東西分裂としている。その中で最も有力だった呼韓邪(こかんや)単于に対して兄の郅支(しっし)単于が反発、勢力を二分するようになり、激しく対立した。そのうち劣勢となった呼韓邪単于が、前54年ごろ、漢に助けを求め、降伏した。このとき呼韓邪単于に従って漢に降伏した匈奴を東匈奴といい、漢に服従しなかった匈奴を西匈奴といっている。東匈奴は内モンゴルに残り、漢と同盟して西匈奴を攻撃した。そのため西匈奴は中央アジアのタラス川流域に移動したが、前36年、漢と東匈奴によって滅ぼされた。Episode 王昭君の悲話
漢王朝は匈奴の離反をさけ、懐柔するために王家か後宮から女性を選び匈奴王に嫁がせる通婚政策をとった。これは唐では「和蕃公主」と呼ばれた。国家の犠牲となって強制的に異朝の宮廷に送られる女性の悲劇だった。有名な話に漢の元帝の時に匈奴の呼韓邪単于の求めに応じて贈られた王昭君の話がある。(引用)有名な物語のひとつによると、元帝の後宮には女性が多かったので、画家に絵を描かせて、皇帝が召し出す女性を決めていたそうです。今ならさしずめ写真を見て決めるということになるのでしょう。それで女性たちはみな画家に賄賂を送って美しく描いてもらおうとしたのですが、王昭君は賄賂を出さなかったので醜く描かれたといいます。呼韓邪単于に女性を贈ることになって、元帝はいちばん醜い女性を選ぼうとして、画家の絵を見て王昭君を召し出してみたところ、これがまたたいへんな美人だったので惜しくなりましたが、単于との信頼関係を重視してそのままになったといいます。しかし他の説によると、王昭君は一度も皇帝に召し出されたことがないので、いささかデスペレートになっており、自ら志願したともいわれます。<堀敏一『中国通史』2000 講談社学術文庫 p.137>この話は元の時代になって元曲の『漢宮秋』となって広く知られている。漢宮秋では王昭君は国境の黒河で投身自殺することになっている。 → 東匈奴の項参照
匈奴の南北分裂
漢王朝は冊封体制をとり、周辺国の君主の王号を認め、それぞれ印綬を与えていたが、前漢に代わって新王朝を建てた王莽は異民族の君主をすべて王から侯に格下げした。匈奴の単于に対しては、それまで「匈奴単于璽」の印綬を与え、単于の号を王よりも上位としていたのが、王莽は「新匈奴単于章」と改め、国号の新を加え、国璽ではなく単なる印章としてしまった。匈奴の単于は強く反発してそれまでの和親を破り、西域諸国に侵攻するようになり、西域諸国の中にもそれに同調するものもあらわれた。王莽の新に代わった後漢の光武帝は和親の回復を求めたが、匈奴は応じようとせず、対立は深まった。ところが、匈奴側に内部分裂が起こり、後漢に有利に展開することとなった。呼韓邪単于の孫の代の単于の時、単于位をめぐる争いが生じ、日逐王比という者が単于になれないことを不満として48年に後漢王朝に降伏してきたのだった。これによって匈奴は南北に分裂し、南匈奴は後漢の庇護を受け、北匈奴は対立することとなる。<西嶋定生『秦漢帝国』1997 講談社学術文庫 p.403,484-486>
匈奴帝国の崩壊とその後のモンゴル高原
北匈奴はモンゴル高原に残ったが、後漢と結んだ南匈奴が、モンゴル高原東方にいた烏桓(うがん。烏丸とも書くモンゴル系遊牧民)、鮮卑、南方の丁零などの遊牧民とともに北匈奴を攻撃し、87年には単于が鮮卑に殺害され、91年にはその本拠も奪われた。匈奴帝国は実質的に姿を消した。その一部がさらに西進し、ヨーロッパに現れてフン人となった、という説が有力であるが、まだ確定していない。 → 北匈奴の項を参照。匈奴帝国が崩壊した1世紀末以後のモンゴル高原には、東部を本拠とした鮮卑(トルコ系またはモンゴル系)が有力となり、後漢末の混乱で亡命してきた漢人を受け容れて漢化しながら、しばしば中国本土に侵攻するようになる。一方、南匈奴は後漢に服属して以来、中国の北辺に移動して定住し、五胡の一つとされ、晋の八王の乱に乗じて、華北に進出し、五胡十六国時代の趙、北涼、漢、夏などを建国した。華北が鮮卑族の北魏によって統一されるとそれに服属し、同化していった。
五胡十六国時代の匈奴
南匈奴は後漢の支配のもと山西省各地で部族ごとに生活していたが、魏の曹操がこの地を制圧すると、地域ごとに左・右・南・北・中の五部に分割して統治された。実際には奴隷として人身売買される境遇にあった。3世紀末、晋で八王の乱が起こると匈奴はその軍事力を利用されるようになった。匈奴の自主性回復の好機と捉えた劉淵は匈奴の兵5万を結集して、304年、漢王を称して独立し(漢王を称したのは、東晋に奪われた漢王朝を復活させることを標榜したため)、山西で建国、漢の高祖を名乗った。これが五胡十六国時代の幕開けとなった。その弟の劉聡は316年、洛陽を陥れ西晋を滅ぼす(永嘉の乱)。この漢は、319年に国号を趙に代える(前趙)。前趙は、後に羯人の石勒が建てた後趙に併合される。参考 匈奴の王墓ノイン=ウラ
ロシア革命(第2次)の前の1912年、ロシア人の鉱山技師がシベリアで金鉱を探している途中で、バイカル湖に流れ込む川の上流の森林でたくさんの古墳を見つけて試掘し、琥珀の飾り玉や銅製品を掘り当てた。西夏の首都カラホトを発掘したことで知られる考古学者コズロフによって、1924年と27年に本格的な調査がおこなわれ、200基以上の大小の墳墓が確認され、ほとんど盗掘されていたが、匈奴の王族の墓である可能性が報告された。革命と第二次大戦の動乱のため調査は中断、ようやく戦後の60年代に詳細な報告書が出され、前漢末や王莽の新の年号のある資料から、匈奴の王墓であることが判明した。現在では、モンゴルの地名でノヨン=オール遺跡といわれている。その後もモンゴルとロシアの国境をまたいで巨大な盛り土をした匈奴の王墓が見つかっており、その王権が強大であったことが判ってきた。<林俊雄『スキタイと匈奴』興亡の世界史 2007初刊 講談社学術文庫 2017 p.290-302>