印刷 | 通常画面に戻る |

五胡の一つで中国の西辺で活動したチベット系。後漢で反乱を起こした後、4世紀末には五胡十六国の一つ後秦を長安に建国した。

 きょう。五胡の一つ。と同じくチベット系氏族で、中国の西部、青海省付近で活動していた遊牧民。五胡十六国時代の384年には、姚氏が長安に入り後秦を建国した。一時華北一帯を支配したが、394年に東晋の劉裕の北伐を受けて滅亡した。唐時代には党項(タングート)として知られ、11世紀には西夏を建国する。

後漢での羌の反乱

 羌は前漢時代から西域に通じる交通路の南側に当たる現在の陝西省西部から甘粛省東部、及び青海省東部の黄河上流部で、いくつかの部族に別れて活動していたが、赤眉の乱頃から後漢時代にかけて、たびたび漢の西辺に侵攻するようになった。羌の侵攻に悩まされた後漢は、そのつど撃退すると共に、降伏した羌人を内地に移住させ、定住させる方策をとった。それによって羌の侵攻もしばらく収まったが、後漢の安帝の107年に、今度は移住羌人が反乱を起こした。きっかけは、安帝が西域遠征軍に移住羌人を徴発したことであった。強制的に動員された羌人は西域の酒泉まで行ったときについに反乱を起こした。
 「かれらは、竹や木を伐って矛とし、板や机をになって楯とし、銅鏡で日光を反射させて兵器と見せかけ、陝西から西域への通路を遮断してしまった。」翌年討伐軍が派遣されたが、数万にふくれあがった羌人の反乱軍に敗れてしまった。羌の指導者滇零(てんれい)は自ら天子と称し、東進して長安を脅かすほどになった。後漢の守備隊は次々と敗れ、漢人の中に羌に投降する者も多かった。羌の反乱は12年に及んだが、滇零の死後、後漢が反撃に移り、ようやく鎮圧された。この羌の反乱は後漢の軍事支出を増大させて財政を圧迫し、王朝の衰微する兆しとなった。<西嶋定生『秦漢帝国』1997 講談社学術文庫 p.497-499>
印 刷
印刷画面へ
書籍案内

西嶋定生
『秦漢帝国』
1997 講談社学術文庫