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赤眉の乱

西暦18年、王莽の建てた新で起こった農民反乱。山東で蜂起し一時は長安を占領したが、27年に豪族をまとめた後漢の光武帝(劉秀)に鎮圧された。

 1世紀初め頃、王莽の建てた王朝が法律の整備などの理念にこだわり、おりからの干魃などによる飢饉に具体的な対策を立てないことに農民の怒りが高まり、各地で農民反乱が起こった。17年に湖北で決起した「緑林軍」、18年には山東で「赤眉軍」が蜂起した。同時に各地の豪族勢力も反王莽で挙兵し、これらの勢力は離合集散を繰り返しながら、23年の新王朝の崩壊、25年の後漢王朝の成立という政変をもたらした。赤眉軍は27年に後漢の光武帝によって鎮圧されたが、この過程で農民反乱と豪族反乱の結合した反乱を総称して「赤眉の乱」と理解することができる。
 中国史の農民反乱としては、陳勝・呉広の乱黄巾の乱黄巣の乱などともに重要である。

緑林軍と赤眉軍

 17年に、湖北省で王匡、王鳳らに指導された農民は、緑林山に集結し「緑林軍」といわれた。緑林軍は王莽の官軍からは盗賊集団とされたので、「緑林」という言葉は現在まで「盗賊」の意味で使われている。
 同年、山東省の琅邪(ろうや)で息子を役人に殺された呂母という女性が復讐のために百人ほどの若者を集めて反乱を起こした(呂母の乱)。18年には山東省一帯で飢饉が広がると、樊崇(はんすう)に率いられた農民が蜂起し、呂母の集団と合体、10万を超える大勢力となった。彼らは王莽軍と戦うときに、眉を赤く染めて目印としたので「赤眉軍」という。眉を赤く塗ったのは、漢王朝は火徳と考えられていたので、漢王朝の復活を願ったものと思われる。
 同じような農民の反乱軍が各地で蜂起したが、反乱軍を構成したのは貧農や、農家の次男、三男など、社会的に不遇だった農民たちであり、いずれも王莽の新王朝の土地政策に不満を持っていた。

Episode 母親の復讐から始まった反乱

 赤眉の乱の先駆けとなったのは、「呂母の乱」であるが、これは子供を殺された母親の復習から始まった。天鳳元(14)年ごろ、琅邪郡海曲県(現在の山東省日照県)で呂母という母親の息子がわずかな罪で県の長官によって殺された。呂母の家は酒造業を営む資産家であったが、呂母は殺されたわが子の恨みをはらそうと刀剣衣服を買い集め、酒を買いに来る少年たちには酒代をかけ売りにし、貧窮の少年には衣服をも与えた。数年間このようにして少年たちの歓心を買い集め、資産をほぼ使い果たした。その窮状をみた少年たちが酒代を払おうと呂母のもとに集まると、呂母は涙を流しながらはじめてその本心をあかし、少年たちにわが子の復讐のための助力を求めた。
 ここでいう少年というのは、貧農の次男三男坊で生業をもつことができないでいた農村社会のあぶれ者たちである。彼らは呂母に協力を誓い、数百人を集めて近くの海岸に結集、それに数千人の流れ者(亡命者)が参加した。流れ者も生業がないために故郷を離れた若者たちだった。王莽政権下の社会的矛盾の端的な表れと言える。
 天鳳4(17)年、呂母は結集した少年・流れ者の集団を指揮して県庁を襲い、長官を殺害してその首をわが子の墓に供えた。王莽は復讐行為は認めるという判断から呂后を許し、その代わり集団を解散させようとしたが、呂母の集団は解散せず、大規模な反乱集団へと変質していった。その翌年、東方諸郡の飢饉を契機として赤眉の乱が起こり、各地で農民反乱が続いた。呂母の乱はそのさきがけだった。22年に呂母は病死し、その集団の多くは赤眉に合流する。<西嶋定生『秦漢帝国』1997 講談社学術文庫 p.410-413>

豪族の反乱

 王莽政権の厳格な大土地所有の制限によって力をそがれることになる地方の豪族も反発を強めていた。豪族の中では漢王室とつながる南陽劉氏が湖北省一帯で反乱を起こした。当主の劉玄が中心となり、その一族の劉秀などが従った。彼らは土着の豪族と婚姻関係を結びながら力を蓄え、各地で反王莽の挙兵に踏み切っていった。
農民軍と豪族軍の連合 赤眉軍に代表される農民反乱と、南陽劉氏に代表される豪族反乱とが、反王莽で一致し、豪族軍が農民軍を指導する形で連合が成立していった。まず緑林軍と南陽劉氏が合体した反乱軍が、長安を脅かしたので王莽政権もその鎮圧に官軍を派遣し、各地で激しい戦いとなった。その過程で南陽劉氏の劉玄は、23年2月、王莽の新王朝を否定して、漢王朝の復活を宣言、即位して更始帝と称した。まだこの段階では劉秀はその一族の部将にすぎなかったが、長安をめざす先遣部隊である緑林軍を率いて河南省の昆陽城を占領した。
昆陽の戦い 23年、王莽は40万あまりの軍隊を徴発し、緑林軍のまもる昆陽城(河南省葉県)を包囲した。城には8、9000人の農民兵しかいなかったが、緑林軍の将校として加わっていた劉秀は、13人を引き連れて密かに抜け出し、数千の援軍を調達して昆陽城外に戻り、城内の農民兵と王莽の官軍を挟み撃ちにして大いに破った。これが反乱軍の勝利への転換点となった。<『中国の歴史入門』世界の教科書シリーズ 明石書店 p.174>

赤眉軍の長安占領

 23年、緑林軍は官軍を追って長安に攻め入った。官軍も激しく抵抗したが、最後には未央宮に逃げこんだ王莽はその台上で反乱軍によって惨殺され新王朝は滅亡した。更始帝(劉玄)が洛陽を攻撃して占領すると、それまで別行動をとっていた赤眉軍は彼らが望んだ漢王朝が復活したとして更始帝に従い、ともに長安に入城した。しかし、長安で皇帝を称した更始帝はおごりが生じ、享楽にふけったため長安での支持を失っていくと、それをみた赤眉軍は更始帝を見限り、離反した。赤眉集団は各地の農民反乱軍を糾合して、新たに劉氏一族の15歳の少年劉盆子(リュウボンシ)を皇帝に押し立てて、30万の大軍となって長安を攻撃、25年9月、戦意を失った更始帝は投降し、後に絞殺されてしまった。こうして赤眉集団は長安の新たな支配者となったが、その指導者樊崇も長安を治める能力に欠け、市民の反感が強まった。

Episode 籤引きで天子となった少年

 赤眉集団ははじめ豪族の劉氏に協力し、王莽軍を破ってともに長安に入ったが、更始帝として即位した劉玄が権力を私物化するだけで、赤眉の本来の要求である農村の復興に関心を示さないのをみて離反した。その過程で、赤眉集団が自ら王朝を建てることを目指すようになった。24年3月、彼らは軍中の巫女が指名した城陽景王の子孫と称する3人にくじを引かせ、あたった者を天子とした。くじを引き当て天子となった当時15歳の劉盆子は、赤眉に拐かされて牛飼いをさせられていた。天子に選ばれたとき、かれははだしにさんばら髪でやぶれた着物をまとい、顔を真っ赤にして汗をたらたら流し、赤眉の諸将が臣と称してかれを拝すると、恐怖にかられて大声で泣き出しそうになり、たいせつに持っていよといわれた自分が探し当てた符を歯でぼりぼり噛んで折ってしまったという。<西嶋定生『秦漢帝国』1997 講談社学術文庫 p.428-429>
 こうして赤眉集団は天子を戴く王朝に変質した。天子とされた劉盆子には漢の火徳を示す赤い単衣と頭巾が着せられ、年号は建世元年と称された。赤眉の指導者樊崇は文字を知らず計算ができなかったので御史太夫となり、もと県の獄吏であった徐宣が丞相となった。しかし王朝として人民を統治する実態は伴っていなかった。

劉秀の即位、後漢王朝成立

 それよりさき、南陽劉氏の一族劉秀は、更始帝の命令に従い、河北一帯の鎮定に当たっていた。鎮定を進めながら、恭順する反乱軍を取り込み大きな勢力になっていった。劉秀が強大になることを恐れた更始帝は長安に呼びつけたが、劉秀は応じず、地盤を固めた。河北平定を終えた劉秀は25年6月、年号を建武元年と改め、光武帝として即位式をあげた。これが後漢王朝の創始である。ただちに官制を整備し、翌月には洛陽に入り、新都とした。

劉秀、赤眉軍を鎮圧

 赤眉集団は戦闘には強かったが、統治能力には欠けていた。おりから長安付近に発生した大飢饉のため食糧が不足し、徴税の機構をもたない赤眉集団は掠奪に走った。長安の市街は焼かれ、人口は激減、赤眉集団は長安を維持することができず、27年、故国の山東に転進せざるを得なくなった。山東をめざす帰路を光武帝(劉秀)の後漢軍に阻まれ、少年皇帝以下敗死し、赤眉の乱は終わりを告げた。<西嶋定生『秦漢帝国』1997 講談社学術文庫 p.410-444>

王莽政権・赤眉の乱のまとめ

 このように王莽の新に対する反乱から劉秀の後漢の成立するまでの過程は複雑であったが、高校世界史では「緑林軍」や劉玄については触れず、この農民反乱を総称して「赤眉の乱」としてまとめている。農民反乱の原因は王莽の失政に対する農民の反発と説明されているが、王莽政権については評価は難しい。後漢の班固が著した『漢書』では当然のごとく王莽は悪人で悪政をおこなったとされているわけだが、そのまま受け取ることはできない。王莽の理想政治は評価される面もある。言えることは、王莽の政治は法治国家の理想を追うあまり、法律の制定や制度の手直しなどにこだわりすぎ、飢饉に苦しむ農民に対する血の通った政策(臨機応変な対応策)が無かったことが反発を受けた理由ではないだろうか。次の光武帝の後漢は、民生の安定に力を注ぎ、一定の長期政権として存続できた。
 結局、農民反乱を鎮圧して豪族(及びそれを支える地方地主層)連合政権を樹立した劉秀であるが、当初は緑林軍に加わるなど、農民の側に立ったことは注目できる。赤眉軍が長安を統治できなかったのは農民である彼らの無知、無能力が理由であるというのは一面的すぎる見方だと思うが、民衆(あるいは人心)は常に変革と同時に安定も望むものと考えれば、王莽の変革の行き過ぎを望まず、赤眉集団の無秩序も望ます、漢王朝の復活という安定を望むという民衆の心理の変化を劉秀はうまくつかんだと言うことであろう。権力の交代はいつもこのような過程をとってあらわれるようだ。
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西嶋定生
『秦漢帝国』
1997 講談社学術文庫

小島賢治/並木頼寿監訳
『入門中国の歴史』
中国中学校歴史教科書
世界の教科書シリーズ5
2001 明石書店