戸調式
西晋の武帝(司馬炎)が制定した税制。占田・課田と連動し、戸ごとの調(現物納)の良を定めた。
西晋の武帝(司馬炎)が制定した、占田法・課田法によって与えられた土地を耕作する農民の一戸ごとに絹と綿を「調」として現物納させる税制。
西晋の武帝が制定
西晋の武帝は、280年に江南の呉を滅ぼし、184年の黄巾の乱から始まった分裂の時代を、約100年ぶりに終わらせて、中国の統一を回復した。武帝は「まさに干戈(武器)をおさめるべき」時が来たとして州郡の兵をことごとく帰農させ、それにともなって占田・課田という土地制度とともに戸調式という徴税制度を制定した。その内容は判らない点も多いが、おおよそ次のようなものであった。<川勝義雄『魏晋南北朝時代』2003 講談社学術文庫 p.164-165 要約>- 丁男(16~60歳の男子)を戸主とする家は、毎年、三匹の絹と三斤の錦を「調」として納付すること。(調は現物納のこと。他に田租があったと思われるがその額は分かっていない。)
- 男子には70畝、女子には30畝を占田させる。(占田とは田を申告する意味。夫婦合わせて100畝は、一般の自由農民にとって適正な耕作面積だったと考えられる。)
- 丁男には50畝、丁女には20畝、次丁男(13~15歳)にはその半分を課田させる。(課田とは田を割り付ける意味。一般の自由民以外の国有地を耕作していた屯田兵・屯田民などに対する規定と考えられる。)
- 占田は官位の一品~九品で差を設けた。第一品は50項、以下一品下るごとに5項ずつ減らし、第9品は10項とした。(九品中正と結びつけ、官品高下に応じて、親族のどの範囲まで賦課免除にするか、奴隷に準じる下僕や小作人を何人、何戸まで持てるか、などの規定もあった。)